七夕の日、7月7日は井戸替えの日でもあった。掃除後、労いの酒盛の場は新しい隣人をめぐって雲行きが怪しくなる。


第四章 井戸替えの場(1)
井戸替えとは、井戸の水をさらい、底を掃除する作業のことである。
例年7月7日に行われるのが慣習だった。
…おっと、釣瓶の網を引く男たちの掛け声が聞こえるような。
「引いたり」
「オウ」
「引いたり」
「オット」
文月七日、すなわち7月7日の今日は例年の井戸替え、水をさらって井戸を新しくするために繰り返し釣瓶の網を掛け声にのせて引っ張る。
ここは三輪の里、酒商売で世を渡る杉屋が、酒を作るための内井戸を特に祝っての賑わしさ。
「サアサア済んだ」
とそれぞれに、神酒や洗い米(よね)、供物を供え、皆々汗をぬぐって一息入れていた。
主の母は納戸より用意の酒肴を運び、いつにないほやほや上機嫌で、
「近所の皆さん、どなたもご苦労でござんした。
 いつもの通り酒盛して、暮れるまでゆっくりと遊んで帰ってくださんせ。
 コレ土左衛門さん、年配のあなたから酒を始めてくださんせ」
「アア、これまた世話をかける、よしになさらずに。
 おいらが同じ借家人同士で手伝うのも、年中ここの井戸の水を使う恩返し。
 のう五洲兵衛(ごずべえ)、そうじゃないか」
「オオそうとも、そうとも。
 気を遣って奮発されてはどうしようもなく困惑しちまう。
 これからはいつもの通り、賑やかに遊びましょ。
 サア野平(のひら)、藤六。騒ごうや、騒ごうや」
「ホンニそれはそうと、コレかみさん、見ればここにも寺子屋のように七夕様が祭ってあるな」
(注釈:七夕は寺子屋の重要行事の一つであった)
「サイノマア見てくださんせ。
 分別なく甘いと思われるでしょうが、うちの娘のアノお三輪、なにやら星様に願いがあるとて、あのように家で祭るもいろいろの供え物。
 ませた世界じゃないかいな」
「ホホ、そりゃマア奇特なこっちゃ。そしてそのお娘(むす)は留守かえ」
「アイ小さい時に行っていた寺子屋へ、七夕に呼ばれました。
 サアサア、ひとつ呑んでくださんせ。ヤイ子太郎(ねたろう)、酌をしないか。
 どりゃ吸物に豆腐でも炊いてきましょ」
と母親は納戸へ入れば、皆たちまちくつろいだ。廻る盃、底なしの酒飲みどもが引き受け引き受け、一気飲み。肴の鉢を引き寄せて箸を放さずの滅多食い。
丁稚の子太郎、呆れ顔。
「アア、さてさて、見ていて気持ちいいとは挨拶じゃ。よっぽど下作な呑みようじゃ。
 井戸の鮒が水飲むように、口あいてがっぷがっぷ。
 エエ、それでは味が知れにくかろ。
 コレこの酒はかみさんが張り込んで、うちの名酒の第一番、男山という酒じゃが、こなさんたちは本の無茶呑み。
 この銚子の替り目から、もう鬼殺しにしてやろう。
 そしてマアいい加減に酒を呑まれたら、いつもの通り騒ごかい。
 うちのお三輪さんの三味線と太鼓も借りてきておいた」
(男山:伊丹の木綿屋醸造の名酒。享保18年には将軍家の御膳酒に。享保~宝暦年間の名酒番付でも上位にのぼる)
「おっと合点」
と口利き、すなわち意見役の土左衛門が眉に皺、
「それはそうじゃが、この隣へ近頃来た借家人の烏帽子折てな職人、この井戸替えも手伝わず、あんまりなめた奴じゃないか。
 野平、何と思うぞ」
「ソレソレやけに色の白い顔つきで、馬鹿慇懃(いんぎん)な生まれつき。
 平生(へいぜい)ぬかす挨拶も堅苦しい言い方。
 毛唐人のような奴。おおかたソレ今はやる『早学文』という本を見て、唐(から)のはめ句をしおるのじゃ。
 この井戸替えに顔を出さぬ以上は、きつく物を言いつけてやろう」
借家の内の神様たち、ご託宣(たくせん)もとりどりに。

それとも知らずのつしつし、ゆったり歩調で帰る隣の烏帽子折、つらく厳しい世渡り甘口に、羊羹色の黒小袖。
一振りの刀をさした風体(ふうてい)に、浪人と見受けられた。


挿絵:ねぴ
文章:松


妹背山婦女庭訓「井戸替えの場(1)」登場人物紹介

<おかみさん>
杉屋の主人の妻。お三輪の母親。
<土左衛門・五洲兵衛>
井戸替えの作業で来た。
前者の名は水に関係することに因んだか。
<野平・藤松>
役柄は上に同じ。
前者は滑稽な名称、後者はあほうで滑稽めいた役柄の人形の名称。
<お三輪>
おかみさんの娘。寺子屋へ招かれて不在。
<子太郎>
杉屋の丁稚。あほうの役柄。
<烏帽子折>
浪士。今は烏帽子折で生計を立てている。
【注釈】
三輪の里:大和国式上群三輪村。現奈良県桜井市大字三輪。
ほやほや機嫌:顔がほころんで笑うさまを指す。
洗い米:お供え用に洗い清めた米。
奇特:感心の意。原文では「きどく」という。
お娘:おむす
若い娘を親しく、また礼を欠いて呼ぶ言い方。
烏帽子折:えぼしおり
男性のかぶり物である烏帽子を作る職人。
馬鹿慇懃:ばかいんぎん
礼儀正しく丁寧過ぎるさまを指す。
毛唐人:けとうじん
唐人を侮辱した言い方。原文では漢語を多用した話し方に反発して言う。
『早学文』:はやがくもん
手軽に漢学の知識を習得することを目的とした手引書。久川資衡著、明和2年刊。
はめ句:流用してはめ込むこと。
『早学文』中には学者用の日常的だが難解な漢語の解説がある。
借家のうちの神様:
ここの「神様」とは、偉そうに言うのを揶揄する表現。
つしつし:ゆったりとした歩き方。
羊羹色:赤みを帯びた黒色。
一振りの刀:原文「一腰(ひとこし)さした」、浪人しても太刀一腰を差すのが嗜みだった。