芝六の鹿殺しの罪をかぶった三作は刑に処せられそうになる。
その折、芝六はある悲壮な思いのために、実子の杉松を手にかける。
(25)芝六の義心と十三鐘
(芝六の)何も知らぬ喜び寝顔を見ながら、そうだと言ったら三作の心も無になり、夫の命がない。
それも悲しい、我が子も可愛いと千々になる鐘――心はさまざまに乱れ、まるで早鐘を打つように忙しなく落ち着かない。
その折に早くも興福寺では六つの鐘を突き始める。
「ハア南無三宝、アノ鐘の数に縮まる子の寿命よ。
一つの命を二つに分け、養い親への孝行心をほめてやってくだされ」
と言うにも言えぬ女房の心は痛み、三つ、四つと重ねて鐘の音が響く胸先は斧やまさかりに打たれる心地。
五つにいつの世の、報いをここで修羅の苦しみの如く、次いで打ち切る六つは、
「ヤア知死期(ちしご)か」と言う声と、
「わっ」と叫ぶ誰かの声が同時に重なった。
見れば蒲団の中も血の涙、寝入った幼子の喉笛に突き刺さった刃が。
「ヤア杉松をむごたらしい。酔っての狂気か、乱心か」
と涙もいっそ狼狽えて咽へ流れる呆れ泣き。
(知死期:読みは「ちしご」、人の死ぬ時期の意)
芝六は居直って声を上げ、
「中将淡海公へ申し上げる。
玄上太郎の本心をお疑いなされ、先程の捕手(とりて)は拙者の心をおためしなさる鎌足公の廻し者と気が付きながら、情けない、人質に心が迷い、いよいよもってお疑いを重ねてしまったので、天皇もここには置かれますまい。
神仏の加護を受け、天皇を匿い申す身の大慶も水の泡となる。
勘当(かんどう)御免もなき時は、生きても、死しても戻らぬ予期に反して残面な結果。
倅を切ってでも、他言いたさぬという心意気を今あらためてご覧に入れる。
コリャ女房、張り詰めた太郎の義心、大事の本心を見せ損のうたのは、三作というそなたの連れ子。元は秦益勝という楽官の女房、その家は蝦夷子の讒言で潰れた家。力になってくだされと頼まれての後連れ。
血の繋がらぬ子がかせになって、鎌足公に根性を見下げられた口惜しさに、刺し殺したのは二人の間に生まれたこの杉松。
科(とが)はないが、主人への疑い晴らしのため。鬼になるべく酔うた赤い顔でいたが、酒ではのうて、剣をのむような苦しい思いをする。
侍の義理が敵じゃと思い諦め、坊主の代りに、たいそう兄を可愛がってやりやいの」
と、どっと座って泣くので、
「ノウコレ、それほどに思ってくださる、その兄の三作は鹿殺しの科人(とがにん)になって縛られて行ったわいな」
「ヤア、ヤアヤアヤア。
すりゃおれの科を身に引き受けて、名乗って行ったか。エエそれを殺しては」
と、狂気の如く駆け出す左手の岩壁に、
「太郎、しばらく」
と声がして、内大臣鎌足公が神事の礼服である小忌衣(おみごろも)、心葉(こころば)の冠姿、その傍らには梅の香、匂い残る采女の御方が内侍所を手に捧げ、悠然とお出ましになる。
「玄上太郎、本心はたしかに見届けた。
我が敵の乱れを避け、よそながら守護する天皇を一日でも御前が御難を避けたのは、あっぱれな忠義。
入鹿が思慕の念を抱く采女は、久我之助(こがのすけ)に言い含め、猿沢の池に入水したことにして、この興福寺の山奥に鎌足もろとも隠れ住む。
今日、思いもよらず、汝の倅を大垣の刑に行うところ、不思議に命が助かった。
三作、参れ」
との仰せの直後、上下(かみしも)姿に改め、しずしずと宝の箱を持って出る。
夜が明けて我が子の無事な顔、
「ヤアまだ生きていてくれたか」
と、思いがけなき夫婦の喜び。
「オオ不審もっとも。
天皇ご病気平癒の祈りのため、天の岩戸の古例を引き、天照大神に祈誓(きせい)をかけ、百日の行(ぎょう)が終る今日、神の力は隠せないものだ。
刑罰の地に掘り穿つ土中に怪しい光り物があり、よくよく見れば、先年失われた内侍所と神璽(しんじ)の御箱であった。
入鹿の父蝦夷子大臣が早くから謀叛(むほん)の根ざしにて、埋め隠していた二つの宝が現れ出たのは、これまさに神明がお助けなさる三作の命。
今あらためて鎌足の親子二代の忠臣とする。
しかしながら、鹿を殺した春日の掟により、同じ血筋の弟の死骸を埋め、刑罰の表を立てて菩提(ぼだい)のため、印の石のその上に撞鐘(つきがね)一宇(う)は鎌足が、あらためて建立(こんりゅう)しよう」
この仰せは、現在まで、暁の六つに死んだ七つの子の数を合せて、十三鐘の音に、哀れにも残っている。
鎌足は重ねて、
「この八咫の御鏡は天照御神のお姿を写した御(み)正体だが、恐れ多くも蝦夷子大臣は、穢れた土中に埋めておいた。
そのゆえに天皇のお光を曇らせたのであり、盲目におなりになっていたのも日月の鏡が曇りしゆえ。
我が行の終る今日に当たって、御鏡がお出ましになることは、常闇(とこやみ)の世の岩戸を開き、天照神(あまてるかみ)と天皇との御対面の時が来たのだ。
天皇のお出ましでございます」
と申し上げる声に応じて、淡海公が天皇の御手を取って立ち出る。
その折、向こう鏡の光は朝日の光に輝いて、たちまち御目もお見えになり、
「ノウなつかしの帝様、采女ここに」
と走り寄り、互いに慕わしく言葉を交わした。御恋仲も恐れ多い。
「ヤアヤア太郎、汝の射た爪黒(つまぐろ)の鹿は入鹿の調伏(ちょうぶく)に使うもので、すぐに太平の御代をお治めになる。
しばらくでも民間にお落ちになったのは、天から地中にお落ちになるのと同じ。
これぞ希(まれ)なる天智帝。
御目もお開きになり、まさにあきの田の、刈穂の庵の仮御殿――この藁屋の仮御殿を木の丸殿になぞらえて、今日出陣の城郭で悪魔追伏(ついぶく)の興福寺は、我が藤原の氏の寺。
いざ、これより臨幸(りんこう)」
と、先を払う鎌足の威風は勇ましい。
草葉に置かれた露のような涙にぬれる芝六が妻を思い、妻のお雉は子ゆえに泣き暮らす。
子ゆえの闇、夜が明けても暗き六つ、七つの時。
十一、十二、十三鐘の古蹟(こせき)を、今に伝えている。
挿絵:時雨七名
文章:松
妹背山婦女庭訓「芝六住家の場(5)」登場人物
<三作>
芝六の義理の息子。両親と再会を果たす。
<お雉>
芝六の妻。三作と杉松の母。杉松を失い、悲しい境遇に。
<杉松>
芝六の実子。七歳。諸事情あり、父親の手で殺されてしまう。
<芝六>
鎌足の元家臣。元は玄上太郎利綱。心を鬼にして実子を手にかける。
<鎌足>
内大臣。芝六の心意気を見届ける。淡海は鎌足の息子。
<采女>
鎌足の娘。入水したことになっているが実は存命。
<帝>
天智帝。盲目だったが、再び見えるように。
【注釈】
大慶:たいけい。大層喜ばしく、めでたいこと。
秦益勝:…ますかつ。猿楽の始祖を秦河勝とする伝承から思うに、その名をもじったか。
楽官:がくかん。音楽をつかさどる官吏(かんり)。
剣をのむ:つるぎ。身を切るような辛く苦しい思いを耐え忍ぶこと。
上下:かみしも。武士の式服。
祈誓:きせい。神仏にいのって誓いを立てること
神璽:しんじ。ここでは三種の神器の一つ「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」を指す。
根ざし:ある考えが根づき、心にはびこること。
臨幸:りんこう。天皇がある場所に至ること。
古蹟:こせき。歴史的な建築物や事件などのあった場所。
興福寺の十三鐘:
同寺の大御堂(菩提院)の釣鐘のこと。名称の由来は諸説あるらしい。
江戸初期に刊行された本『奈良名所八重桜』第6巻に伝承の記載がある。