治承2(1178)年11月、平清盛の娘で高倉帝の中宮である徳子が産気づき、皆が六波羅へ詰めかける。


そうこうしているうちにこれらの人々は鬼界ヶ島を出て平宰相こと平教盛の所領である肥前国鹿瀬庄に到着した。
平宰相は京より人を遣わして
「年内は波風も激しく厳しい旅路となるので、今はよく身体をいたわって春になってから京へ上るように」
と伝えたので、少将藤原成経は鹿瀬庄で年を越すこととなった。
さて、この出来事と同年の十一月十二日の寅の刻より、中宮平徳子が産気づいたということで京中、そして六波羅は大騒ぎとなった。産屋は六波羅の池殿に設けられたので、法皇もそちらへ行幸された。関白をはじめ、太政大臣以下の公卿や殿上人、立身出世を望む者は一人として洩れることなく六波羅へ詰めかけた。
これより先にも后のお産の時に臨んで大赦が行われたことがある。大治二年(西暦1127年)九月十一日の待賢門院のお産の時に大赦があったのだ。その先例に倣い今回も重罪人がたくさん恩赦を受ける中で、俊寛僧都ただ一人は赦免されることがなかったというわけである。
中宮は、平穏のうちに皇子を産むことができた暁には八幡、平野、大原野などへお参りしようと願掛けをしておられた。そのことを全玄法印が謹んで申し上げる。
神社では伊勢の大神宮をはじめ二十余箇所、寺院では東大寺、興福寺以下十六箇所で御誦経が行われた。御誦経の使者は、中宮の侍の中で官位のある者がこれを務めた。平紋の狩衣を着て帯剣した者どもが様々な御誦経物、御剣、御衣を持って列を成し、東の対より南面を渡って西の中門から出て行く光景は非常に美しく見事な光景であった。
小松大臣(平重盛)はあまり物事に動じぬ人であったので、その後時が経ってから嫡子である平維盛以下公達に車を連ねさせ、色とりどりの御衣四十領、銀剣七つを広蓋に置かせ、御馬十二頭を引かせて参られた。これは寛弘年間に上東門院藤原彰子がお産をされたとき、その父親である御堂殿こと藤原道長が御馬を献上された例に倣ったとのことである。小松大臣は中宮の兄であり養父でもあるので、御馬を献上されるのも理にかなっている。
そして、五条大納言邦綱卿も御馬を二頭献上したとのことである。意識が高いのか、それとも財産が有り余っているのか、などと人々は噂した。
なお、このとき伊勢をはじめ安芸の宮島に至るまで七十余箇所へ神馬が奉納された。内裏からも寮の御馬数十頭が四手をつけて奉納された。
仁和寺の門跡は孔雀経の法を、天台座主覚快法親王は七仏薬師の法を、三井寺の長吏円恵法親王は金剛童子の法を執り行い、その他にも五大虚空蔵、六観音、一字金輪、五壇の法、六字加輪、八字文殊、普賢延命に至るまで残るところなく仏事が執り行われた。
護摩の煙は御所中に満ち、鈴の音は雲を揺るがし、修法の声は身の毛もよだつほどの迫力でいかなる物の怪も寄せ付けないほどである。さらに、法印によって中宮の姿をうつした七仏薬師、並びに五大尊の像が作り始められた。
それでも、中宮は暇なく陣痛に苦しむばかりでなかなかお産が始まらない。
入道相国平清盛とその妻である二位殿こと平時子は胸に手を置いて
「これはどうすればよい、どうすればよいのだ」
と狼狽えていた。周りの人が何かを申し上げても
「とにかく良きように、良きように」
と仰るばかりである。
「それでも、これが戦陣のことであればこの清盛はこれ程臆さないものを」
と後に清盛入道は仰った。
霊験あらたかな祈祷僧の房覚、昌運両僧正、俊堯法印、豪禅、実専両僧都は各々の僧伽の句を唱え、本寺本山の三宝、年来所持の本尊達へ何度も何度も伏して祈りを捧げ、手に持った数珠を擦り合わせた。
これはさぞかしご利益のあることだろうと皆が尊ぶ中、後白河法皇は折しも新熊野へ行幸なさるための精進の期間であられたので、中宮の産屋の近くにお座りになり、千手経を繰り返し唱えられた。すると今ひときわ様子が変わり、踊り狂っていた憑座どもがうち静まった。
法皇が仰った。
「いかなる物の怪であろうと、この老法師がこうしてここに居るからにはどうして近づくことができよう。なかんづく、今現れている怨霊どもはみな我が朝恩によって一人前になった者どもであろう。それに対してたとえ報謝の心はなくとも、害をなすことは許さぬ。すみやかに退散せよ」
さらに続けて
「女人が難産に苦しんでいるときに臨んで魔性の者がそれを妨げ、苦しみを耐え忍びがたいときであっても、心を尽くして大悲呪を唱えれば鬼神は退散し、安楽のうちに子が生まれることであろう」
と仰った。
そこで、皆が水晶の数珠を押し揉めば、お産の様子が安らかになったのみならず、生まれたのは男皇子であった。
そのときはまだ中宮職の次官であった頭中将平重衡が御簾の内からツッと出でて
「御産平安、皇子の御誕生である」
と高らかに申されれば、法皇をはじめとして関白以下大臣、公卿殿上人、助修の僧侶、数人の祈祷僧、陰陽頭、典薬頭など、みな一同に「あっ」と喜び合う声が門の外まで響いてなかなか静まらなかった。
入道相国はあまりの嬉しさに声を上げて泣かれた。嬉し泣きとはまさにこのことである。
小松大臣は中宮のもとへ参って金銭九十九文を皇子の枕元に置き、
「天をもって父とし、地をもって母と定められませ。その御命はかの東方朔のごとく長寿を保ち、その御心には天照大神が入れ替わられますように」
と仰り、桑の弓と蓬の火でもって天地四方を射させられた。


挿絵:ユカ
文章:水月


「御産」登場人物紹介

<平徳子>
高倉帝の中宮。御産に臨む。
<平重盛>
小松大臣。徳子の兄で養父。
<平清盛>
入道相国。平氏の棟梁。徳子の父。
<平時子>
二位殿。清盛の妻で徳子の母。
<平重衡>
清盛の五男。中宮職の亮(次官)を務める。
<後白河法皇>
第77代天皇。治天の君として君臨している。

【語釈】
法印(ほういん):法印大和尚の略。僧位の最高位。
四手(しで):玉串や注連縄などに下げる紙。