三作は、継父・芝六の身代わりに自分が鹿殺しの犯人であると名乗り出る。
興福寺衆徒(僧兵)の鹿役人は、先に立った杉松の示す門口を覗き込んだ。「罪人はあの若造だな。捕った」と言うやいなや、否応もなく三作を捕らえて引っ立てると、用意していた捕縄をかける。お雉は驚き
「いったいこれは何事です。うちの大事な子をどうするつもりですか」
「春日の鹿は神の使い。それを殺した者は大垣の刑に処されるのが古来よりのしきたりだ」
「その詮議は聞きましたが、他大勢の狩人を取り調べもせず、この子一人をそのように。とんでもない言いがかりです。なにか証拠でもあるのですか」
「証拠もなく名を挙げるものか。その若造のしわざであると、確かな訴えがあったのだ。疑う余地などない」
「その訴えた者というのはどこのどいつです。無実の罪をきせるなど、切り刻んでも飽き足らない。さあここへ出してお見せください」
「訴えたのはこの若造よ。実の弟からの進言だ、間違いはあるまい」
鹿役人の言葉にお雉は驚き、
「坊や、あなたさっきまでどこに行っていたの」
「わしはこの手紙を持って、あの坊様の家に行って、いっしょに戻ってきた」
杉松の言葉を訝しく思い、お雉は手紙をひったくる。読むたびごとに胸がどきどきする。
「お尋ねの鹿を殺したのはたしかに私、兄の三作に間違いありません。それならこの書付を」
「ああわしが持っていった。さあ兄様、駄賃をくだされ。まんじゅうが欲しい」と、弟は分別がない。
「なにを言うのです。ああ、ほんとにもうたわいもない、子どもの言うことです。取り上げてくださいますな。ねえ三作、あなたがそんなご禁制を破ったりするものですか。早く言い訳なさいな」
お雉がつき出すと、三作は顔を振り上げた。
「たしかに弟が訴えた通り、鹿を殺したのは私でございます」
「なんてこと、気でも狂ったの。取り乱すどころではないのよ」
「取り乱してなどいません。これは私のしでかしたこと。このままでは罪のない狩人の仲間衆に取り調べが行われ、一つ間違えば父様に難儀をかけるやもしれませぬ。それが悲しく思い、潔く名乗り出ることにしました。
母様はいつも、今の父様は血のつながらない親だから、よりいっそう大切に孝行するように言っていたではありませんか。私はそれをよく覚えています。私が処罰にあった後は、父様がお泣きにならないよう、京の町へ奉公にやったと伝えてください。
これからは杉松を、私のぶんまでかわいがってください。鹿や兎の命を取ると、いずれはこうなるもの。せめてあの子だけは、狩人になさらぬよう、そればかりを頼みます。ではさらばです、母様」
親の身代わりに罪科を引き受ける高踏さを思い合わせ、お雉は未練がましく止めることもできず、泣きじゃくった。
「ほんとうにまあ、健気というか。自分で産んだ子どもながら感心なこと。血のつながらない二度目の親、夫に対してわたしはまだ恩返しができていないのに。大人も及ばぬ利発さは、一生分の知恵も寿命も13年に縮めたのか。(こんな良い子を持った親だと)自慢しても足りないまれな子を、世にもまれな石子詰めで殺すだなんて。いくら生まれる前からの運命でも、あまりにむごい。決して、決して、決して殺させはしない」
お雉がわが子にしっかりとしがみつき、滝のように流す涙で縛り縄が湿ると、さらに三作の身に食い込んだ。
「裁きの決まった咎人に叶わぬ繰り言を。今宵は寺中で法会がある。明け六つ(午前6時ごろ)の鐘をつくのを合図に、山の麓を掘って石子詰めの刑罰を執り行う。いまは七つ(午前4時ごろ)。あと一時(2時間)だ」と鹿役人は引っ立てる。
「なんと無慈悲な。畜生一匹を殺しただけの罪、それほどの裁きにも及びますまい。どうぞ助けてくださいませ。それが叶わぬのなら、この母もいっしょに埋めてください」
お雉は三作の袂にしがみつくが、涙ながらに縄目の子を見送る親と見返る子の別れをよそに、役人は取り付く島もなく、霧霞飛ぶがごとく引っ立てていった。
母は取り乱し、足腰も立たず、
「三作、待っておくれ。思えば、今日はなんて凶日。由緒正しい武士の子の一生を狩人として終わらせるだけではなく、土地の法で非業の死を遂げさせるだなんて。殺生の罰か、報いか。なんと悲しいこと」
そう言うと地面に身を打ち付け、あらん限りの声を上げて泣いた。
悲しみを払う玉箒のような酒。どんな大事もすっかり忘れたような芝六が機嫌よく酔って、ふらふらと千鳥足で戻ってきた。
「やあ、こんなところにご婦人が。地べたに寝転んでいるということは、あなたも酔いを覚まそうとしていると見える。色事はご無沙汰だ。どれ抱いてやろう」と芝六が手を取る。
「あらうちの人じゃありませんか。悲しいこと」
「しまった、こいつは泣き上戸。我は悲しくても笑う。いやまたこのような嬉しい時だ、祝って一つ泣くといい」
芝六はすっかり酔った有様だが、お雉は泣き顔を見せまいと気を取り直し、泣く泣く笑顔を取り繕った。
「ほんとにもう、ご機嫌のお戻りで。さっきは取手の侍に取り巻かれていましたが、その決着はつきましたか」
「ああ、しくじってなるものか。このよく回る舌で、立て板に水を流すが如く、決して匿ってなどいませんと、シラを切り通して戻ってきた。これからはより安心してあのお方を匿えるというものだ。そうは思わないか。天子様のご機嫌はどうだ。まあ喜べ。天子様が盲目になりあそばしたからこそ、こんな家にいらしてくださるのだ。ありがたいというか、もったいないというか、めでたいというか、うれしいというか。これが喜ばずにいられるか。なあ、そうじゃないか。
まだ嬉しいことがある。明日の明け六つの鐘が鳴れば、鎌足様がここにいらっしゃる。そこで勘当をお許しになるはずだ。淡海様が保証してくだすった。念願叶うのは明日。あまりに嬉しくてな、居酒屋を叩き起こして祝い用にお神酒を五合いただいてきた。これ坊主や、明日から元通り侍として、お前にも大小の刀を差してやろう。おや、兄者はどこにいる。三作よ、作、作よ」
と呼ぶ夫の声に、悲しみや苦しみで妻の胸は張り裂けそうだった。
「作はあなたの戻りが遅いから、一人で猟に行くと言って」
「こんな夜中にいったいどこへ。とんでもない、もう猟師はさせぬ。本当の武士に仕立てるのは明日、夜が明け次第。いや、もう夜が白みかける。出世の雲が見えるぞ。ああ、ありがたやありがたや。早く明け六つの鐘が鳴らないものか。お天道さま、どうかどうか」
夫が空を見て祈ったり表を覗いたりしている。それとは裏腹に、夜明けは我が子の最期、どうかこの夜が百年も明けずにいて欲しいと妻は願う。胸中はさまざまで、嬉しいも六つ、悲しいも六つで、この思いは計り知れない。
「今夜はまるで元旦を待つ心地だな。果報は寝て待て。少しばかり寝るとしよう。坊主は我の懐に」
芝六はすっぼり布団をかぶると、すぐにとろとろとくたびれて寝入った。
挿絵:あんこ
文章:くさぶき
妹背山婦女庭訓「芝六住家の場(4)」登場人物
<三作>
芝六の義理の息子。芝六の身代わりに、自分が鹿殺しの犯人であると名乗り出る。
<お雉>
芝六の妻。前夫との間に生まれた三作と、芝六との間に生まれた杉松という二人の息子がいる。
<杉松>
芝六の実子。兄・三作に頼まれて、鹿を殺した犯人として兄の名前が書かれた手紙を役人に届ける。
<芝六>
鎌足の元家臣。復権のため、ご禁制の鹿を射殺す。盲目の天智天皇を匿っている。