新年を迎えたある日、高倉帝の中宮、平徳子は御懐妊なさる。しかし、中宮は罪人の怨霊等によってひどく苦しまれるようになり…。


赦文
治承2年(1178)正月1日、院の御所では正月の祭礼が行われて、4日には朝覲(ちょうきん)の行幸があった。
何事も例に変わったことはなかったが、去年の夏、新大納言成親卿以下、近習の人々が大勢粛清されたこと、法皇の御憤りは未だ止んでいない。政治も物憂く思われて、精神的によろしくない状態であった。太政入道(平清盛)も、多田蔵人行綱が鹿ヶ谷の陰謀を密告してから後は、法皇をも不審なことであるとお思い申しあげて、上にはことなき様子であるが、内心では用心して、苦笑いしているばかりであった。
同年の正月7日、彗星が東の空に出現した。蚩尤気(しゆうき)とも申す。また、赤気(せっき)とも申す。18日には光を増す。
さて、入道相国の御娘、建礼門院は、そのころは、いまだ中宮ということであったが、御病気ということで、宮中も世間も嘆く声に満ちていた。
諸寺では御読経が始まり、諸社へは官幣使を遣わされた。医師は薬を尽くし、陰陽師は術を駆使し、大法秘法は一つとして残す所なく行われた。
しかし、御病気はは普通ではいらっしゃらず、御懐妊ということであった。高倉天皇は今年18、中宮は22になられる。けれども、いまだ皇子も姫君もお生まれになっていない。もし皇子でいらっしゃるならば、いかにめでたいことであろうかと、平家の人々は、ただ今にも皇子が御誕生になるかのように、いさみ喜びあわれた。
他家の人々も「平家の繁栄は機会を得た。皇子の御誕生は、疑いない」と申しあわれた。
御懐妊と確定されたので、御利益のある高僧や貴僧に命じられて、大法秘法を行い、星宿や仏菩薩に託して、皇子の御誕生をと祈られた。

6月1日、中宮御着帯の儀式があった。仁和寺の御室、守覚法親王が御参内されて孔雀経の法をもって御加持された。天台座主の覚快法親王も、同じく参られて、変成男子の法を行われた。
こうしているうちに、中宮は月が重なるにしたがって、体調を悪化させなさる。
一度笑えば百の媚があったという漢の李夫人が、昭陽殿の病床もこのようであろうかと思われ、唐の楊貴妃の、梨の花が一枝春の雨に濡れ、芙蓉が風にしおれ、女郎花が露の重さに耐えかねるといわれた様子よりも、なおいたわしい御様子である。
かかる御病気の時に合わせて、恐ろしい御物の気どもが取りつき奉る。
物の気を乗り移らせる人形を、不動明王の縄目にかけると、霊が現れた。
とくに讃岐院の御霊、宇治の悪左府(藤原頼長)の怨念、新大納言成親卿の死霊、西光法師の悪霊、鬼界が島の流人たちの生霊などと申した。
これによって太政入道は、生霊も死霊もなだめよとて、すぐに讃岐院の御追号があり、崇徳天皇と号す。宇治の悪左府は、贈官贈位が行われて、太政大臣正一位が贈られる。勅使は少内記維基ということであった。
その墓所は、大和国添上(そえかみ)群、川上村、般若野の五三味である。
保元の秋に掘り起こして捨てられた後、死骸は道端の土となって、年々ただ春の草だけが茂っていた。
今、勅使が訪ねてきて、宣命を読んだ時に、亡魂はどんなに嬉しいと思ったことであろうか。
怨霊は昔もこのように恐ろしいものである。
それで早良廃太子を崇道天皇と号し、井上内親王を皇后の職位に復す。これみな怨霊をなだめられし方策である。
冷泉院が御狂いになられ、花山法皇が十善万乗の帝位を退かれたのは、元方民部卿の霊の仕業である。三条院が失明されたのは、観算供奉の霊の影響という。
門脇宰相(平教盛)は、このようなことなどを伝え聞いて、小松殿(平重盛)に申されたことは、
「中宮御産の御祈りがさまざまに行われております。何と申しましても、非常の恩赦にまさることがあろうかと思えません。中でも、鬼界が島の流人たちをお召し返されるほどの功徳善根がありましょうか」
と申されたので、小松殿は、父である入道の御前にいらっしゃって、
「あの丹波少将のことを、宰相が一途に嘆願しておりますのが不憫でございます。
中宮御懐妊の経過がよくないことと承ります通りでしたら、成親卿の死霊の仕業などということです。大納言の死霊をなだめよう とお思いになるにつけても、生きております少将をこそ、お召し返しになるべきでしょう。
人の怨念を止めさせなさるならば、願い事も叶い、人の願いも叶えられれば、御願も即成就して、中宮はやがて皇子をお産みになって、家門の栄華はますます盛んになるでしょう」
などと申されたところ、入道相国は日ごろと似ずに、ことの外に穏やかで、
「さてさて俊寛と康頼法師のことは如何にすべきだろうか」
「それも同じく召し返されるのがよいでしょう。もし1人でも留められるなら、むしろ罪業たることでしょう」
と申されたところ、
「康頼法師のことはさることとしても、俊寛は随分入道が口添えして、一人前になった者であるぞ。
それに所もあろうに、自分の山荘、鹿ヶ谷に城郭を構えて、ことに触れて怪しげな振る舞いなどがあったのでな、俊寛を許すなど思いもよらん」
とおっしゃった。
小松殿は帰って、叔父の宰相殿をお呼びし、
「少将はすぐに赦免になりますぞ。御安心くだされ」
とおっしゃると、宰相は手を合わせて喜ばれた。
「下る時も、なぜ身元を引き受けてもらえないのかと思っているそうで、敦盛を見る度ごとに、涙を流しておりましたことが、不憫でした」
と申されたので、小松殿は、
「誠にそうお思いでしょう。子は誰とても可愛いのですから、よくよく入道殿に申しましょう」
といって、奥に入られた。
さる程に鬼界が島の流人たちを、召し返されることが決定されて、入道相国が赦文を下された。その御使者は既に都を出発した。
宰相はあまりの嬉しさに、御使者に私用の使者を加えて下された。
夜を昼にして急ぎ下されとあったが、思い通りにならない海路なので、波風をしのいで行く程に、都を7月下旬に出たが、9月20日頃、鬼界が島に着いた。


挿絵:歳
文章:松(まつ)


「赦文」登場人物紹介

<太政入道>
平清盛。平安時代末期の武将。平氏の棟梁。
<平徳子>
高倉帝の中宮。清盛の娘。院号は建礼門院。
<門脇宰相>
平教盛(のりもり)。通称の読みは「かどわきさいしょう」。清盛邸の門の脇に居を構えたことに由来。
<小松殿>
平重盛(しげもり)。清盛の長男。通称の読みは「こまつどの」。武勇に優れた人物。
<高倉天皇>
第80代天皇。名は憲仁(のりひと)。後白河帝の第7皇子。笛の名手。
<守覚法親王>
読みは「しゅかくほうしんのう」。法親王は「ほっしんのう」とも。後白河帝の第2皇子。
<覚快法親王>
読みは「かくかいほうしんのう」。鳥羽帝の第7皇子。

【語句集】
赦(しゃ)……国家や皇室に吉凶の大事があった時、特に囚人の罪を赦すこと。
朝覲(ちょうきん)……年初めに、天皇が上皇または皇太后の御所に行幸すること。また、その儀式。
赤気(せっき)……空に現れる赤色の雲気。蚩尤と共にオーロラを指す。また、彗星のこととも。
星宿(せいしゅく)……中国で定めた星座のこと。
法親王(ほうしんのう)……出家後に親王の宣下を受けた皇子の称。「ほっしんのう」とも。
十善万乗(じゅうぜんばんじょう)……天子、または天皇のこと。
変成男子(へんじょうなんし)
仏教用語。女子が男子に生まれ変わること。男性の身を得ることで成仏ができるという。
着帯(ちゃくたい)
妊娠5か月目に妊婦が腹帯(岩田帯)を締めること。下腹部の保温や胎児の位置を正常に保つ意味のほか、信仰的な面も。
蚩尤(しゆう)
中国の古代神話にみえる軍神。墓とされる所を人々が祀ると、空に赤い雲がたなびいたという。
それを「蚩尤旗」とよんだ。彗星との関連性はこの伝説に由来か。