帝は管弦を所望するが、楽人はおらず、騒ぎ立てては居場所がバレてしまう。そこで芝六達は…


姿は庶民におちながらも、心は官位右近衛の中将のままに淡海公はするすると立ち出で、
「兼秋卿、政常卿。陛下はますますお心安らかにお過ごしです。これは我々の気苦労の賜物です。
 芝六夫婦が親切で危険を逃れこの家に匿い申し上げても、予想もしなかった入鹿の乱のことを帝のお耳に入れてはますますご病気も重くなられるだろうと何事も包み隠し、
 ただ何事もなかったかのようにもてなし、盲目でいらっしゃるのを幸いにこのあばら屋を内裏の御殿の中だと偽り言いくるめ申し上げる我々の気苦労の。
 これからも帝がこれを悟られることのないように」
その言葉半ばに、破れた畳に
「おでまし」
との先払いの声と共に御格子さながらに明かり障子を押し開ける。
おいたわしいことに天皇は、今自分がいるのはこの賤しい家だとは夢にも思わず、白平絹に緋の袴をお召しになり、褥におかけになると、
公卿たちは各々「シィ」と威儀を正してお目にかかる。
配膳の典侍あちゃの局が下げようとする御膳の平戸焼の茶碗、土器の食事が手つかずで残されているのを見て、淡海公はそれを押し止める。
「ご朝食、ご昼食は少しだけ召し上がり、お夕食は手つかず。このまま下げよとの仰せか。さてはお料理がお気に召しませんでしたか。
 えぇい不調法な。御膳番の大隅大炊頭に厳しく申し付けよう」
そういって立とうとするのを
「まぁ淡海、そのように心を痛めるな。膳番の者の罪ではないのだ
 両目が見えぬ病の上に、采女との別れの嘆きに沈み、仕方のない心の迷い。不徳の君と蔑まれても仕方のない恥ずかしいことだ」
と帝がお止めになる。そして
「ここは常寧殿であるな。そこに控えているのは誰だ」
とお尋ねになる。
「大納言兼秋、右大弁政常、その他参議、中将、少将、百官百司が残らず皆参内もうしております。
 陛下の御目さえお見えになれば、遠方のお出かけができなくても、この内裏の中でも様々な見どころがございます。
 その障子の生絹には桐に鳳凰が描かれ、見事な色彩です。上段の絵は、竹林に七賢。
 また、清涼殿の廊下より奥の間の四季。杉戸には蘆に鷺。雪に梅。種々色々の名画名筆があり、毎日見ていても見飽きない御殿でございます。
 そうだ、そういえば初春にもならないのに内裏の殿舎の梅が今盛りです。陛下の御目も開くであろう瑞相でございます」
とまことしやかに申し上げるので、帝は
「本当にその通りだな。天皇の位につきながらこの宮中さえ見ることが叶わない常闇は、皇統を汚す私の誤りのなすところだ。
 今月は内侍所の御神楽がある。前もって稽古しているだろう。病気平癒の祈りなんだから楽人どもを呼び寄せ、寿の管弦をはじめよ。早く早く」
とおっしゃる。
この仰せに驚き、「ハッハッ」というばかりで、すぐには管弦の才覚も出てこない。
取り消せない天皇のお言葉に冷や汗をかきながら
「はぁはぁこれはよい思い付きです。楽は何がよろしいかな。還城楽か。武徳楽か。
 楽人はただいま間もなくこちらへ。えぇ何故遅参いたすのだ」
と座を立ったのをよい機会に芝六の手を引いて門口に出る。
「さて迷惑な仰せだ。急に管弦のお望みとは…。
 たとえできるとしても笛太鼓で騒ぎ立てては、すぐに人に帝のご居場所を知られてしまう。何かいい知恵はないか」
「知恵と言っても…楽・舞とやらは我々の手に負えないものです。そもそもあなたがこんな家で口から出まかせを仰るからです。
 おぉ、ではこれはどうでしょう。私はしばらく広瀬にいたので、べれべれ万歳を覚えています。私の息子に舞わせて、私が小鼓をたたきましょう。
 これで管弦の代わりになりませんか。素袍烏帽子はないがそこは盲目様のおかげでふだんの恰好でも問題ない。問題ないでしょう」
「おぉそれは好都合だ」
と御前に出て、
「楽人が遅れていますうちに、広瀬村の万歳が滝口へ参ります。梅の早咲きと申しまして、春に先立って参るのもよいことの前兆。
 庭先で千秋万歳を勤めさせましょう。それ、お許しであるぞ、始めよ」
との仰せに「あい」と応える声も可愛らしく、時の幸い、才若が扇を開いて

「万歳とありがたい我が君のご病気がしずまり、御目もお開きなさるのはまことにめでとうございます。
 昔の京は難波の京。中ごろの京と申すは滋賀の京。辛崎の松の色はかわらないが変わったのは我々の身の有り様。
 天皇はお変わりなさるなと千年の齢を身につけておられる。
 忠臣の柱は月卿雲客。二本(日本)の柱は日天子で、三本の柱は左近の桜に右近の橘。四本の柱は紫宸殿。五本の柱は五畿内安全。
 幾重にも宮中までも治り、民が靡く天皇の御代が千代も八千代も、細石が巌となるまで」
と祝い、寿き申すと帝はたいそう感嘆なさって
「見事に祝したものだ。誰かいるか。褒美をとらせよ。管弦糸竹も祝儀は同じ。
 今日の舞楽も終わったので、百官百司も退出せよ。私も夜の御殿に入ろう。
 思えば私はこのように錦繍羅綾の中に座り、民の苦悩を少しも知らず、徳がないのに栄華に耽る。それを神がご覧になるのが恐れ多いことだ」
とご自身の状況はお知りにならず民を憐れむお言葉に、各々顔を見合わせうなだれて涙を流し、天皇をしばらく内にお入れ申し上げる。


挿絵:ユカ
文章:やっち


妹背山婦女庭訓「芝六住家の場(2)」登場人物

<帝>
天智天皇。盲目。自分は今宮中にいると思い込んでいる。
<淡海公>
藤原不比等。鎌足の息子。
<芝六>
猟師。天皇らを匿う。