亡くなった思い人の采女の局を慕い、盲目の天皇は彼女が入水したという猿沢の池へと天皇とも分からぬ憐れな姿で向かう。


山働きの狩人
山また山も都路は心に連れ添い奥深い。名も猿沢の池にまで波が立つ世こそ心苦しいものであった。
こちらの道から辿ってくる山働きの狩人どもが連れ立って立ち止り、
「コレ九右衞門、われわれの仲間の芝六がこの間から夜狩をして、いい褒美を付け出した。それでおれらを助けとして雇い、葛籠山から山城の国境へ入り込んでいるとのこと。今夜は力一杯働いてやらねばなるまい」
「オオサ、もう明けても暮れてもおれの相手は猪武者だ。五、六疋(ぴき)射とめてやって、十分に褒美をもらおう。サアサア行こう」
と暮しに追われ褒美を貰うことしか頭にない猟師は芝六が獲物を追う真相までは深く考えず、足を早めて急いで行く。
淡海の勅勘、赦免
世のつらさは身分の尊き卑きにかかわらず、亡くなった思い人采女の局のあとを慕い、恐れ多くも万乗の君、天皇の嘆きは深く、その情愛から夜に御所を忍び出、天皇であるとはまったく誰も分らず、舎人にも、武官にもただ官女だけの道案内で、池のほとりへ来る御車のきしる音さえものさびしい。ことに盲目の天皇であるので、さらにあわれなお姿で、お話になる声もうちしおれ、
「このあたりが猿沢の池なのか」
との仰せに官女が進み寄り、
「この間久我之助清舟が申し上げましたとおり、采女様が入水なさったという猿沢の池でございます」
と申し上げると、改めて御涙が流れ落ちるのをこらえきれないで、
「思い出すと、去年の秋、民の生活を憐れんで、『我が衣手は露に濡れつゝ』と私が詠んだ傍らで筆を取っていたその采女が最早この世にはいない人というのか。ほんとうに私の袖が涙に濡れる始まりだったのだろう。せめて今宵の手向けだ」
と、
「わぎもこが 寝ぐたれ髪を 猿沢の 池の玉藻と 見るぞ悲しき(わたしの愛しい人の寝乱れた髪を猿沢の池の玉藻と見るのは悲しいことだ)」
と詠み捨てて、お泣きになることは限りない。
ちょうどこのような時に、こちらからおちぶれたみずぼらしい浪人姿の者が御車近くに手をつき、
「女中方へお頼みもうす。天皇様の御車だと遠くからお見受けもうしたので、強いてお願いもうすことがある。
恐れ多いことですが、天皇へ申しあげるお取り次ぎをお頼みします」
と言う声を、そうだとお聞きなさり、
「ナニ久しぶりだな、淡海であるか」
との仰せにさらに頭を下げ、
「私は過ぎた日の節会の時、神事のきまりを誤り、早くから勅勘を蒙り、その過ちを悔いて内裏を遠ざかり、市中にひそんでおりましたところ、蘇我蝦夷子が自分勝手に振る舞い、父鎌足も蟄居(ちっきょ)いたさせ、さらに天皇のお体も普通でないと聞くやいなや後先を顧みず、なにとぞ天皇をお守りするため勅勘をお許しくださるようお願いもうしあげます」
と、地面にひれ伏して詫びた。
天皇が感嘆することは並々でなく、
「私の不徳がなすことなのか、周りに奸佞(かんねい)の者が絶えず、蝦夷子は帝位の望みがあって、叛逆の企てがあることを嫡子の入鹿大臣の忠義によって露顕し、安倍行主を使いに立て、今日事を糺(ただ)すことになった。まだ帰ってこないが、蝦夷子の自害は目に見るようだ。鎌足を内裏から追放したことも悔んでも甲斐がないことだ。今からは元の淡海、ふたたび忠勤を励め」
と、ほんとうにありがたいお許しの仰せに、淡海をはじめお付きの者もみな喜んでいるところへ、
入鹿謀反の注進
宮中の勤番使いが御車のあとを追いかけ、息を切らして馳せ参じ、
「天皇がここにいらっしゃったこと、ようやく知れ、ご注進いたします。今日蘇我蝦夷子の館へ行主公が勅使として大判事を召し連れられ、彼らが叛逆の取り調べをしたところ、すみやかに白状して蝦夷子はその場で切腹し、清澄がその介錯をした。

 そうするうち、仏道修行で取り籠っていた入鹿大臣が宝蔵へ忍び入り、叢雲の御剣を奪い取り、ほんとうは親蝦夷子に増して王位を望む大悪人で、行主もすぐに手をかけ、宮中へ攻め込んできた。これを防ぐ公卿の面々を、あるいは蹴殺し、切り倒し、公卿は上を下へと逃げさまよい、さすがに広い宮中の内でも人もいなくなるほどです。なおも追々に注進」
と言い捨てて帰っていく。
皆々はっと驚くが、特に天皇のお嘆きは、
「どのような天の咎めなのか。思いもよらぬ入鹿の悪心により、私は天下の主なのに、臥す所さえない身となるのは、見苦しくなさけない身の上だ」
とお嘆きなさるのを、淡海は
「お心弱い仰せ」
と元気づけながら思慮をめぐらして、ひそかに官女の耳に口を寄せ、申し合わせて、車に向い、
「思いがけないただいまの注進。これから急いで行き、遠見をいたし、安否をご報告いたしましょう」
と言って、出て行くふりをする偽りも、盲目の天皇の御心地を休める方便で、こちらにある木陰にしばらくたたずむうちに、女官たちがそれぞれに元気づけもうしあげる。
しばらくして淡海は急いで帰ったような足音をさせ、御車近くに息をついで、
「ただいま遠見をいたしたところ、諸国の軍勢が蟻のように大人数で宮中に急いで参り、さすがに勇猛な入鹿大臣もすぐに退けましたので、たちまち内裏は穏やかです。早くお入りなさいませ」とまことしやかに述べると、天皇は安堵の御思いで、お喜びは限りない。
淡海は官女を制して、
「急いでお帰り」
と先に立ち、牛車の轅を取って舎人のように押して行くその先はどことも定かでなく、それでもうわべだけはは勇んで露を踏み分けて辿って行く。


挿絵:三菱
文章:ねぴ


「猿沢池の場」登場人物

<天皇>
天智天皇。盲目の病を患う。
<采女の局>
藤原鎌足の娘。天智天皇から寵愛を受ける。
<久我之助清舟>
大判事清澄の息子。采女の局の付き人。
<淡海>
藤原鎌足の子、藤原不比等。