入鹿の死を目前に、妻・めどの方は蝦夷子に異見する。


 めどの方は橘姫を見送った。あてのない身の上を諦めかねた胸の内では、たとえ願いがかなっても心は変わらぬであろう夫の気質を知りながら頼んだのも、義妹の想いを無下にせぬようにとあれこれ思い続けたためだった。庭に下り、木草の枯れ葉を眺めても、なおいっそう無常を感じる。
 夫の命も今日限りだと思うと、涙は胸中に溢れる。降り積もる雪をかき集め、かき寄せて、氷る手先も後世のためだと、まとめ丸めて五輪(地水火風空をかたどった五重の石塔)を象る。「この世の名は入鹿大臣、頓証菩提」と手を合わせ、心の回向がこみ上げてくる声も憚って忍び泣くのは、あわれはかない風情である。
 それにひきかえ奥の間では、世間を写した三味線の音色や、なまめく歌の声が冴えている。
 花は散りても春は咲き
 消えて帰らぬ
 その雪にさえおとる
 憂き身は消えもせで
(花は散っても春は咲く。消えて帰らぬその雪にさえ劣るつらい身は、消えもしないまま)
「あんまりというか、心無いというか。現世での子といい、嫁といい、今日を限りの命だというのに」
 と悲しむことを聞き捨てにして
 捨てた浮世にこうして居れば
 仇名たつたの流れの錦
(捨てた浮世にこうしていると、仇名がたってしまう。立田の流れは錦のようだ)
「なんと心無い。この状況で雪見の酒宴とは。あの鐘の打ち納めが入鹿様のご臨終というのに。夫を先立てて、なにが楽しみなものか。私も同じところでこの雪とともに道連れとなろう」
 めどの方は上着を脱ぐと、墨染の袈裟姿で今朝から積もる広庭の雪の上に座り、合掌した。このままここに埋もれて死のうという貞心は天に通じたのか、色香盛りの黒髪も、八十歳の老女と見まごうばかりである。
 家族愛、血筋にとらわれない蝦夷子大臣は一間を出て
「嫁御よ、そんなところで泣いているのか。役立たずで馬鹿者の入鹿のことを気に病み、好き好んで雪いじりをすることはない。そんなことよりこっちへ来て、火に当たってはどうだ」
「なんと無慈悲なおっしゃりよう。夫は定にお入りなさるのに、妻の私がどうして敷物の上にいられましょう。雪に凍えて死ぬのが、せめてもの夫婦の誠でございます」
「貞節な心がけだな。その言葉を聞いて、そなたに問いたいことがある。入鹿の入定は仏法信仰だけではあるまい。もっと深い事情があるはずだ。親子にまさる夫婦の間柄、夫の心を知っていよう。または密かに聞いたことがあるだろう。その様子が聞きたいのだ。あいつは強情に言っているが、可哀想な息子の命、事と次第によっては入定を思いとどまらせないでもない。どうだ」
 と、尋ねる蝦夷子の猫なで声も気味悪い。
「親御様さえご存じないことを、どうして私が知っていましょう。ですが端から見て思うに、夫のお覚悟は、舅様のお心が知れぬためと存じます」
「蝦夷子の心はこの白雪のように清廉潔白。その雪に埋もれては、俗世の穢れは見えるまい。それでは気が収まらぬ。入鹿の性根を聞かせてみよ」
「いつも夫が申すのは、内大臣鎌足と父蝦夷子は、この国にとって二つの柱と同じ。片方がかけても我が君の御為にならないという話です。その鎌足どのを追放なさるのは深い事情があるのだろうと」
「知れたこと。この蝦夷子は忠臣で、鎌足は佞人であったということ。奴を追放したのは天下のため、ひいては我が君の御為だ」
「いいえいいえ、鎌足殿に罪のないことは、世間はみな知っております。鎌足殿の威勢を妬み嫉んでの讒言だという世間の誹りは、夫の耳に入りました。それが積もっての、あのお覚悟です。ひとり栄華を極めようとして、誹りも省みなさらない蝦夷子様さえお心を改めてくだされば、夫も入定を思いとどまることでしょう。夫の生死は父御様のお心次第です。この嫁を哀れと思うのなら、お聞き入れください。我ら夫婦の命はともかく、お心が治らないとあれば、蝦夷子様の命も危ういものとなりましょう。我が君の御恩を受けながら、天皇の位を奪う謀反をご決心なされたのでしょう。貴方に報いがあることが悲しくて異見いたしました。悪心を思いとどまってください、蝦夷子様」
 舅を思い、夫を思い、合わす両手にはらはらと流す涙は、深山の滝のようである。
 始終をよくよく聞いた蝦夷子大臣は、
「もうよい。それでは我が大望を全て入鹿に聞いたのだな。そうだろうと思っていた。気遣いは無用。
そなたたちの望むとおりにしてくれよう。だが、まだ尋ねることがある。めどの方、駒下駄を直せ」
 と、刀を引っさげ、庭に降り立つ。
 めどの方は、もしかしたら納得してくれたのかと思ったが、心の底は知れず、危ぶみながら庭の白砂に目をやる。
「嫁御、近う寄れ」「はいはい」と立ち寄る目先へ氷のような刃が突き出され、めどの方ははっと飛び退いた。
「舅御様、それではどうしても思いとどまるお心は無いということですね」
「馬鹿なことを言うな、女め。天下を取ったら息子に譲ってくれようという親心を無下にし、道義のみを守る息子にはもう構わぬ。大望を思い立ち天皇の位に登ろうとするこの蝦夷子が、あんな甲斐性無しとは知らず入鹿に連判状を渡してしまった。そなたがありかを知っていよう」
「いいえ御謀叛の事情は聞きましたが、連判状とやらは」
「しらを切るか。大事を聞いた女、しかも阿倍行主の娘とあらば、しょせん生かしてはおけぬ。言っても殺す。言わなくても殺す。その一巻をここへ出すなら、苦痛もなくひと思いで。抵抗すればなぶり殺しだ。さあさあどうする」
 めどの方は逃れる術もなく、刀で肩先をすっぱりと切られた。突っ込む蝦夷子の鋭い切っ先に、手負いの身体は地に転び、白砂や雪を蹴り上げる。蝦夷子の手に渡すまいと、めどの方は懐中の一巻を火鉢に投げ入れた。炎が燃え立つ。

 ちょうどその時、嵐のように激しい鐘太鼓の音が聞こえた。
「なんと不可解な攻め鼓。連判状を焼き捨てたということは、我が大望をくじいた不孝者夫婦が大事を敵にもらしたのか。
忌々しい女め、思い知るがいい」
 足元に踏みつけ、肝先を何度もえぐり、どくどくと流れる血潮は雪一面を赤く染めた。眼血走る蝦夷子。
 表の方では、「勅使である」と呼ぶ声がする。
「貝鐘の音のに引き換えて勅使の案内とは。我が胸中を探るはかりごとか。我が身は今日の一挙で決まる。支度をするぞ」
 と、蝦夷子は不敵にも帳台の奥深くへ入っていった。


挿絵:あんこ
文章:くさぶき


「蝦夷子館の場(3)」登場人物

<めどの方>
入鹿の妻。中納言安倍行主の娘。
<蘇我蝦夷子>
左大臣。鎌足を朝廷から追放し、謀反を企む。
<蘇我入鹿>
父・蝦夷子を思いとどまらせるため仏道に帰依しようとする。