酒宴を催す蝦夷子の元に、入鹿の妹「橘姫」と妻の「めどの方」がその胸の内を訴えに来る。


ため息をつく蝦夷子の元に、入鹿大臣の妹の橘姫と、入鹿の妻であるめどの方がやってきた。舅である蝦夷子に思うところがあった。奥の間には今日の酒宴に似つかわしくない鉦の音が鳴り響いている。その音が、二人の女性にはしみじみと感じられるのだった。
めどの方は、つっと蝦夷子ににじり寄り、「ご機嫌はいかが」と声をかけて両手をついた。
「御酒宴の最中ではございますが、お願いがございます。私の夫である入鹿大臣は、秋の頃よりひたすらに仏の道にお入りになり、奥の亭へ引きこもったまま、一つの棺を地中に埋めて、今日でちょうど百日目。入相の鐘を最後に、地中の棺にお入りになると聞いています。言いようのないこの身の悲しさ、あなたしか頼りが無いのです。少しはその心を汲んでお諫めなさってください」
そう、涙を流しながら恨み言を言う。
橘姫は、「なにとぞ再び兄上様が遁世の決意を翻されるようにどうか……」と、一つの思いを二人で言った。

これを聞き蝦夷子は、顔色を変えた。
「いや、聞きたくもない入鹿めの話をするか。この私の威勢に続き、何の不足もない栄華を捨てて仏法という外国の邪法の術に縋り、昼夜の区別なく称名を読誦とは、この世にあって役に立たぬ悴よ。そんな奴は土へなりと、定へなりと、入りたいままにしておけ。さっきから鳴るこの鉦も……ええい、いまわしい不孝者め!お前たち二人も二度と言うな!」
「はい――」
「いや、まだ不吉な泣き声がする。お前達はこの酒宴を妨げるのか!」
「いえいえもうし、なんのまあ御遊興を妨げたりいたしましょう、もう何も申しませぬ。涙もこぼしはいたしませぬ。お赦しになってください」
女の、枝をたわめるほどの雪が溶け出たように袖をぬらし、雪をも溶かす火のように熱い思いは、胸の中にとざされるのであろう。
「もうし父様、もう兄上入鹿様のことを申すものは誰もおりません。ご機嫌を直されて、別殿で御酒宴を――」
橘姫があわてて取りなすと
「ほほ、娘、よく言った。場所をかえて再宴としよう。玄蕃、弥藤次も奥へ来い」
と、蝦夷子の怒りはおさまった。蝦夷子の言葉に、腰元どもがそれぞれ彼に付き従って奥の間へ入る。
「父上のあの気質では、どれほどお願いなさっても、お聞き入れはあるまい。これからこの橘は宮中へ急ぎ参り、なにとぞ兄上入る笠間が入定を思いとどまりなさり、ふたたび昇殿できるように幾橋のお局へお願い申すつもりです」
橋姫はこう言ってめどの方に力をつけると、めどの方は、「非情なのは入鹿様です。今日を最後に入定なさり、生き別れになる私のみ、同じ館にいながら、暇乞いにお顔をと願うことさえなく、泣いて暮らしております」と、噎び泣く。
橘姫もともに涙し、二人とも、しのぐ術のない思いである。
「めど様、気遣いなさいまするな。日暮れまでのことなので、一刻も早く私は宮中へ」
「それはたいそうご苦労ですが」
「これはまあ改まったこと! 私としても同じ事、それ腰元ども、宮中へ上がる支度をせよ!」
橘姫の言葉に側仕えの者が畏まって「輿乗物を」と言う。
日頃仲の良い嫁と小姑は互いに励まし合いながら、禁裏を目指して急いだ。


挿絵:ユカ
文章:黒嵜資子


「蝦夷子館の場(2)」登場人物

<蘇我蝦夷子>
左大臣。鎌足を朝廷から追放した。入鹿の父
<蘇我入鹿>
蝦夷子の子
<橘姫>
蝦夷子の娘であり、入鹿の妹
<めどの方>
入鹿の妻