蝦夷子の呼び出しに参上した久我之助は、采女の局が死んだと報告する。
栄える御所に並ぶ邸宅は、三条の御所とも呼ばれる蘇我蝦夷子の広館である。雪見の亭を庭にしつらえ、女小姓を肉屏風とし、奢りに隙はない。中庭の影で雪を丸めているのは、冷たさをこらえ、主命を遂行する宮越玄蕃である。のちに荒巻弥藤次が台に乗せた雪人形を持ち、それぞれ主の機嫌を伺った。
女中たちは口々に「あらあらおふたりの大層なおはたらき。特にこの雪細工は、ウサギの耳が素晴らしい出来栄えですこと」「まあ、しをり殿のおっしゃる通り、束帯姿の人形はとてもきれいだわ」と褒めそやされ、ふたりは大人気もなく自慢げである。
蝦夷子はにっこりと笑い、「玄蕃、弥藤次、よくやった。さあ酌を取れ」と余念なく盃を回す。そこへ、案内もなく広館を伝って入ってくる2人の僧がいた。弥藤次はそれを見咎め、叱りつける。
「やあやあそこのご両人。何用があってここを通る。御前であるぞ」
「いや我々は、文聖寺と八乗寺で住職をしている者です。仏法に帰依なされている入鹿様は本日で祈願満了するゆえ、拝礼に参上した次第。まかり通る」
と奥庭へ入ろうとするのを蝦夷子は睨みつけ、「入鹿の無用な仏三昧、おぬしたちもその配下の者か。もったいなくも日の本の神の守護を受けるわが屋敷。その奥の亭へ通ろうなどとは、身の程も知らぬ売僧どもめ。首を切って並べてくれる、覚悟せよ」と顔色が変わるので
「ああお待ち下さい、貴方様が仏嫌いとは夢にも思いませんでした。命ばかりはお助けください。これもまたお嫌いかも知れませぬが、拝み申し上げます」と手を合わせ、身を震わせて青ざめ顔である。
「首を引き抜いてやりたいところだが、取るに足らぬ木菟入どもだ。玄蕃、弥藤次、そいつらの衣を剥ぎ、月代を奴頭に剃り立てて、門前から追っ払え。それを肴にまた一献しようではないか。腰元ども、用意、用意」
という蝦夷子の言葉に、女中たちはざわめき立って櫛笥の剃刀を持ち出し、玄蕃と弥藤次の2人に渡した。
「ああそんな、この衣を剥ぎ、頭を奴頭にお剃りになると。それでは還俗でございます。どうぞそればかりはご堪忍を」
「還俗がいやならば、いまこの場で殺してやろうか」
「ああどうか、どうか、これ文聖寺、命には代えられん、いかようにでもしてもらおう」
「物分りの良いことだ。いま玄蕃が言った通り、嫌ならすぐに成仏するが、御前様のお慈悲で、お前らの好きな仏国天竺へ所替えだ」
「いえもう天竺へなど向かわずとも、これではまさに天竺浪人(宿無し)でございます。手に覚えた技能はないし、困ったものだ」
などとつぶやくうちに、玄蕃と弥藤次は手に手に衣を剥ぎ取り、引き据え、剃刀の刃を研いでごっしごっしと剃りかかった。
「あいたたた、ちょっとお待ち下さい、空剃りとはあまりにひどい。これ八条寺、そなたもさぞ痛かろう。どうかどうか、とても耐えられませぬ」
「ああこれ文聖寺、それは仏道の心理をしっかり体得できていないからだ。首代わりのこの月代だ、悟りの道を極めれば、痛いと思うと、痛いけど、痛くないと思えば……やっぱりあたたたた」
「あ痛」
「あ痛」
僧たちが首をすくめているのを肴にして、蝦夷子は酒宴をしている。奴頭に剃り立てると、僧たちは頭を撫で回し撫で回し、残った鬢に顔を見合わせ、
「ほんにあんまりのことで、痛いやら、おかしいやらではないか。なあ、八乗寺」
「ああ、お前がおれが、おれがお前がという有様で、どうも気に食わぬ頭になった。これからはなんでもして世渡りしよう。貴僧はこれより文聖寺の一字を取り、文七と名を改めよ。愚僧は八乗寺の八をとり、八蔵と名乗ることにする。まったく変わったことになったなあ、文七殿」
「こりゃあまあ大変なことになったわい。あなたも、それならこれより八蔵殿」
「へへへへ」
「へへへへ」
他愛ない坊主たちを玄蕃と弥藤次は追い立て、門外へ放り出した。
そのとき、表の広間口から取り次ぎの青侍がまかり出る。
「大判事の子息、清舟が召しに応じて参上」
と呼ぶ声とともに入ってくる久我之助清舟は、才能や品位に武気に備わる中に優美さもあり、優美な長下姿で礼儀正しく座についた。蝦夷子大臣は進み寄り
「久しぶりだのう、久我之助。使いをやったところさっそくのお出まし。尋ねたいことは他でもない、帝が寵愛なさる采女局は鎌足の娘だが、最近内裏を抜け出し、入水したと聞く。そなたは采女の付き人なので、事の真偽を尋ねたく呼び寄せた。噂通りで相違ないか」
「仰せの通り、采女殿は世を儚み猿沢の池へ入水なさいました。葬送を営んでまだ3日を過ぎておりません」
「そうかそうか。鎌足の蟄居を悲しみ、あきれた采女の最期よ。付き人であるそなたの落ち度となり、大判事から勘当されたと聞く。であれば主も親もない身。なのになんだその姿は、きらびやかに礼服を着飾って、我が目の前へ出る。そなたの本心がわからぬ」
「不審に思われるのはごもっとも、親もなく、主もなく、独り立ちの私ですが、若輩ながら蝦夷子公へ奉公のお願いに、主君と敬ってこの礼服姿です」
真意を探る考えを心に秘め、久我之助がまことしやかに述べると
「ははあ、この蝦夷子に奉公を望むというのか。若輩者ながら感心なことだ。私も望むところだが、そなたの父大判事に勘当を赦させ、親子ともに我が臣下となそう」
「いえ、父の気質から考えるに、一度申し出たことは変えぬ確固不動の心ゆえ、勘当も許さず、二君には使えぬ考えでしょう」
「その考えを変えぬ大判事を味方につけてみせよう」
「いかようにも。父が納得するのであればこの上ない幸せですが、しょせん私一人の奉公が叶わぬのなら、あれこれ申したところで仕方ありません。これにてお暇いたします」
しずしず歩いて行く向こうの方に、あらかじめ言いつけてあったのだろうか、玄蕃と弥藤次が現れ、前後に囲んで仁王立ちになった。蝦夷子の命令で両人が一度に切りつけるのを、久我之助が身を沈めてかわす。双方の刃は相打ちとなった。それならばと開き、横からの構え、剣を車輪のようにまわし突っ込む切っ先に、久我之助は左右の柄元をしっかりと握った。
「蝦夷子殿の仰せであるか。なにゆえこのような無礼な振る舞い」
「不審はもっとも。そなたの武芸のほどを二人に試みるよう言いつけておいたが。いや見事、見事」
「これはあらたまったお尋ね。若輩者ゆえ、腕試しの覚えもありませぬ。よりいっそう稽古を積んで、改めてご覧に入れましょう」
久我之助は双方を突き放すと、後ろへ下がって、両人がまたも切り込む刃と刃を庭の飛石で受け止める。御殿の天井から不自然に上がる金網に清舟は厳しく目を配った。
「これは再三のお試し。真剣の相手をせよと仰せですか。お望みとあらは、いかようにも」
「いやはや驚きの手際だ、たしかに見届けた」
双方の刀は鞘に納められ、飛石を元へ直すと、御殿の網は棟木の遥か上に隠れた。
「切っ先を受け止めた今の飛石は、地を離れると鉄網が下がる。もとのように石を置くと、網も隠れてその気配もない。手の込んだご要害ですな」
久我之助がなにげない様子でそう褒めると、蝦夷子はぎくりとし、術の試みが悟られたことを取り繕う得意顔で
「大切なこの要害を、そなたは身内同然ゆえ、見せておくのもいいだろう」と急に手なづける愛想の言葉に
「この久我之助も武士の端くれ、ただいまのお手配りを決して他言はいたしませぬ。お気遣いは御無用」と暇を申して左右に目を配り、悠々と立ち帰っていった。
挿絵:やっち
文章:くさぶき
「蝦夷子館の場(1)」登場人物
<蘇我蝦夷子>
左大臣。鎌足を朝廷から追放した。
<久我之助清舟>
清澄の息子。采女の局の付き人。
<采女の局>
鎌足の娘。天智帝の寵愛を受けるが、蝦夷子の企みから逃れるため失踪。