鎌足大臣の娘、采女の局が禁裏から姿を消したという知らせを受けた久我之助清舟。配下の武士と手分けして探すなか、夕暮れ時の山道にて清舟は、ぼんやりとした足どりの采女に偶然出会う。
後に清舟はただ1人、「はて、どういうことなのだろうか」と一思案し、思いも乱れながら、夕暮れ時の山手をさして歩いて行く。
向こうからやって来る人音に、身をよけてやり過ごしたところ、いかにも身分の高そうな宮中の女官が上の空で通り過ぎて行く。
その袖を引き止めて、
「采女様でございますか」
「やぁ、久我之助ではないか」
「左様にてございます。ただいま配下より知らせがありまして、采女様は御殿を抜け出し、御行方知れずと申します。一体、どのようなお考えがあってのことなのでしょうか」
と尋ねられて、女官が話す辛い物語とは。
「おまえも既に聞き及んでいるだろう。
蘇我蝦夷子は威勢にのぼせ上がり、その娘橘姫を帝様の后に立てようと以前から望んでいる。
わらわが君にお思いいただき、夜の御殿(おとど)、昼の亭と、少しの間もお傍を離れないことをねたみ、父鎌足様をも讒言して宮中を遠ざけ、父がどちらへいらっしゃっているのかも、わらわさえ知らぬのだ。
わらわがお世話を致せば致すほど、帝様のお身の害となる。誠ある入鹿の大臣(おとど)は、父蝦夷子を諫めかねて、引きこもりなさるという。
それ故、父の隠れ家を尋ね求め、身を隠し、姿を変えようという我が身の望み、ただ見逃しにしてほしいのだ。頼むぞ」
と言うだけで、後は涙にくれなさる。
「はっ、この身は傅きの役目ですが、後日の難儀は少しもかまいませぬ。
あなたの為、また第一には天子の御為(おんため)に、なるほどお逃がし申しましょうが、諸士どもがあちらこちらに手配りいたしていますので、村の出入り口を御供申し、騙して御通し申しましょう。
さぁ、まずはこちらをお召しなさいませ」
と、件の蓑笠(みのかさ)をお着せ致し、いたわりながら通る出口の方、
またも大勢の足音がして、以前の武士どもが走り寄り、宵の暗さに透かし見て、
「久我之助殿、まだここにいらっしゃったのか。出口出口を調べましたが、お局の行方は知れません」
「ふむ、私は山道を調べたところ、コレここにいる百姓が怪しい人を見つけたと知らせてきた。まだそうとは断定できないが、大方に采女の局であろう。私はこれからこの土民に案内させて調べを進める。貴殿方はこのことを急いで禁裏へ奏聞(そうもん)あれ」
「はっ、かしこまりました」
と、武士どもは皆々勇んで内裏へ向かった。
こちらは辛き身、その身を隠した蓑笠に、雨のような涙を流し、天下に清き心をもった清舟も采女とともに涙をこぼす。
それはまるで、時雨模様となる空のように。
挿絵:あんこ
文章:松(まつ)
「春田の小松原の場」登場人物
<久我之助清舟>
大判事清澄の息子。采女の局の付き人。美少年。
<采女の局>
藤原鎌足の娘。天智帝の寵愛を受けるが、蝦夷子の企みから逃れるために宮中から失踪。
<用語集>
人音(ひとおと)…人がいる気配の物音。また、人がやってくる足音。
采女(うねめ)…宮中の女官の一つ。天皇や皇后の近侍し、食事をはじめとした日常の雑事を専門に行った。
昼の亭(ちん)…天皇が日中、出御する御座(おまし)の意。