天智天皇の治世。帝位を狙う蝦夷子大臣は、謀略により鎌足大臣を蟄居させる。
畏(かしこ)くも知ろし召す
敷津八州の三器(かんだから)
智たり仁たる英雄の
利き剣は四夷を刑す
和らぎ治む和歌の道(おしえ)
八つの耳をふり立てて
小男鹿(さおしか)の声はいと高く
曲がれるものを直きに置く
操久しき君子の国
宝祚を伝えて39代 天智天皇の宮がある 奈良の都の冬木立
日の本の聖主たる君、天皇の身でさえ闇い盲目の病を抱えている。天地に日を失ったかのごとく、殿上人であるなしに関わらず堂上堂下はこれを悲しみ、その時々の評議も他ではなかった。玉座の左は蘇我蝦夷子大臣、政務を預かる権威によって幅を利かせ、自分の意を押し通す我意驕慢なふるまいは凄まじい。右には安倍中納言行主、庭上の謹臣には大判事清澄がいる。守護の武功を立て、立烏帽子に素袍の袖も優美である。蝦夷子の家臣宮越玄蕃、そのほか百官百司の面々が威厳を正して仕えている。
蝦夷子はゆったりと笏を持ち、「あらためて言うまでもないが、帝は盲目となられた。神事礼式のまつりごとや儀式、日々の政務を執り行うことはかなわず、我が息子入鹿大臣は病床にて引きこもっている。また、進んで力となるべき鎌足大臣は、仮初めにも病と偽り、政務を放り出して隠居するつもりらしい。いそぎ帝に奏聞せよ。今日は鎌足を呼び出し、きびしく問い詰めるということで意見がまとまった。そのための使いもすでに立ててある」と、自らの邪智をおし隠す。讒言は明らかであった。
中納言行主は進み寄り、「蝦夷子公の仰ることはもっともであるが、忠勤一途な鎌足大臣に、どうして悪意があろう。よくよく思慮を巡らせて、粗忽な計らいなどせぬよう」と言うのも待たず、宮越玄蕃は「これはこれは行主公ともあろうお方の言葉とは思えない。帝のお心を安らかにしようと、老身の骨折りもいとわぬ忠勤一途な蝦夷子公が、粗忽な奏聞などなさるだろうか。和歌や蹴鞠に明け暮れて政務を知らぬ公家風情と一緒にしないでいただきたい」と傍若無人な主人贔屓である大判事清澄は居直って、「いやはや陪臣の玄蕃どのは大げさだ。堂上の談じ合いは君子の諍いでありますぞ。その方たちの知ることではない。下がっておれ」と叱りつける。
「いいやたとえ陪臣であろうと、理非を正すのに遠慮はいらぬ。いま一度申してみよ。即効斬る」と行主が迫り寄り問い質すと、玄蕃も鍔元を緩め、まさに一触即発の事態である。蝦夷子は声をかけ「やあやあ、清澄も玄蕃も差し控えよ。無礼至極であるぞ」と制すると、取り次ぎの若侍がまかり出た。「武官の方々へ御願いの筋があるそうで、先日亡くなった太宰少弐の後室が、推して参ってございます」と呼ぶ間もなく太宰の後室・定高が入ってきた。容貌も雰囲気も盛りを過ぎ、世俗との交わりを絶ち、世を捨て草の二つ髷である。
礼服の打掛さばきはしとやかで、勾欄近くに両手をつき、「恐れながら申し上げます。死んだ太宰少弐の五十日の忌明けが済みました。なにとぞ娘の雛鳥にふさわしい婿を迎え、太宰の家の相続を御願い申し上げたく、いまだかつて上らぬ宮中に参りました。無礼はお許しくださいませ」と会釈する顔は赤らんでいる。
大判事清澄が打ち向かい「私が取り次ぎしお迎え申すところであるが、少弐どのの生前からこの清澄とは遺恨ある間柄。取り次ぎしても叶わぬ時に、私の遺恨で不公平な処置をしたと思われても甲斐がない。それ玄蕃、そなたが取り次がれよ」「おおこれはちょうどよい。なに定高どの、かねてから主の蝦夷子公に御願いして、あなたの息女雛鳥どのを私の妻にと申していたのだ。今に至るまでなんの返事もなかったが、いまのお言葉で私も安堵いたした」と思いもよらぬ婿候補に、定高はあれこれ返事をしかね、うなだれ俯いていた。「やあやあ定高、玄蕃の願いはただ勝手に思っているだけのこと。そのうち帝に奏聞するので、家名相続の返事があろう」「ああ、ありがとうございます。長居は恐れ多いことですので、これにて」と押しつけ婿の相談を免れた定高は、しずしずと帰っていった。
帝の病の悩みは深く、帳の中から出てきた采女の局は蝦夷子大臣に「帝様の勅諚があります。行主さまもお聞きなさい。鎌足大臣に野心があるとの報告につき、今日御殿へ招きよせ、事を明白にただすようにとのお言葉です。我が父鎌足を召しまして、どのようなことでもお聞きなさいませ」と落ち着いた様子で言うと、蝦夷子大臣は居丈高に「鎌足大臣が遅いのは腑に落ちぬ。再度使いを急がせよ」と呼んでいるところに「参内」と声が上がり、鎌足大臣が入ってきた。
中納言行主が座を譲ると席につき、蝦夷子に向かって「今日、私を改めて召されるのは何事であろうか」と言うと、采女の局が進み寄り「父上に申し上げます。早くより病床にあり、久しく参内がないことを、諸卿は野心の疑いありと見なしました。忠勤篤い父上にどうしてよこしまな心がありましょうか。すみやかに申し開くべしと、帝様からのありがたい勅諚でございます」と言うのを聞き終わりもせず、蝦夷子大臣は「鎌足大臣とは、帝の左右を助け合い、親密な仲である。心構えをただすのに遠慮は出来ぬ。これより貴卿に見せるものがある。弥藤次、参れ」と呼ぶと、一声上げて荒巻弥藤次はひとつの箱を携えてきた。
御前に置いて、引き下がる。蝦夷子はその箱を開いて「5日前、春日大社の社壇にて、何者かがこの箱を奉納した。中には鎌がひとつ。『男子誕生平天下』と書きつけてある。その方の娘・采女は帝に傅き、誰をも及ばぬ寵愛を受けている。もし男子が誕生すれば、鎌足大臣はおのずと外戚になろう。『平天下』と書き添えたのは、天下を乗っ取るという心願であろう。鎌は鎌足の家宝で、他に類を見ぬ重宝である。それに似せた鎌を新たに作らせ、奉納したのは他ならぬおぬしであろう。覚えがないとは言わせぬぞ、さあ答えよ鎌足大臣」と思いもよらぬ証拠の鎌に、多くの公卿はあきれ果て、なにも言えなかった。
鎌足大臣は思慮を定め「断じて身に覚えはないが、目の前には実際に、疑わしくも似せて作った鎌がある。反逆者が私に罪を着せようという企てであろうが、この悪党を見つけ出すまでは、釈明しても仕方がない。私はしばらく禁裏を避け、いずこへと蟄居しよう」「おうおう、疑いが晴れるまでは、どこへなりとも蟄居なされよ。それ玄蕃、弥藤次、門前へ送り出せ。早う、早う」と蝦夷子の言葉に、采女の局が「なぜ釈明なさらないのですか、父上」と嘆くのを中納言行主が元気づける。娘の言葉に耳を貸さず、鎌足大臣はしずしずと退出した。
蝦夷子をはじめ多くの諸卿は早く退散しようと席を立った。武勇たゆまぬ清澄も、真相がわからないのでしかたなく、はやる心を抑えた。荒巻、宮越は素袍の袖に肩肘を張り、蝦夷子の帰路を警護する。鎌足は心に鋭さを隠していた。
はかる七重八重 慣れし九重ふり捨てて
いづくの空や はかなき後の栄えをまつの色
操変わらぬ君が代のためし等しき
どこの空ともわからぬ、いつともわからぬのちの栄えを待つ。松の色のごとく操変わらぬ我が君の治世は、長く栄えることであろう。
挿絵:時雨七名
文章:くさぶき
「大内の場」登場人物
<天智天皇>
第38代天皇。中大兄皇子。この話では神功皇后を代数に加えたため、39代と記載される。盲目の病
<藤原鎌足>
中臣鎌足。謀により謀反の疑いをかけられる。
<蘇我蝦夷子>
蘇我蝦夷。蘇我入鹿の父。この話では蝦夷子と記載される