藤原鎌足薨去ののち、談岑は様々な人の手によって時代を超えて支えられてきた。そして1046年正月24日、談岑に祀られた鎌足の神像が不思議な現象を引き起こす。
実性僧都
実性僧都は紀伊国那賀郡の人で、俗姓は紀氏という。13歳のときに初めて談岑に登り、玄念大法師に師事して仏教を学んだ。
さて、延暦寺には第12代座主として法橋贈大僧都玄鑑和尚という人がいるが、彼は座主になる前、名山で修行をしており、この談岑にもやって来た。和尚は談岑に一夏留まり、修行三昧の日々を送った。このとき談岑の玄念法師は、修行が終わった暁にはこの山にお返しくださいますようにと言ってまだ小童であった実性僧都を玄鑑に託した。
実性僧都は仏法を修めた後、次第に貴族達にその名を知られるようになった。延喜19(西暦919)年には検校に任ずるとの官符を受け、時の帝の師として鎮護国家の祈りを捧げた。天暦元(西暦947)年に談岑の座主として権律師に任じられ、同9(西暦955)年には小僧都に任じられ、そして翌年の正月17日に卒した。その卒去に際して帝より法眼和尚という諡号を賜った。
以降、談岑の門人を検校とし、叡山(延暦寺)の門人を座主とすることになった。この二つの門人は今に至るまで勢い盛んである。談岑の弟子千満が検校に、叡山の弟子春邉律師が座主に任じられている。
増賀上人
増賀上人は参議正四位下橘恒平の息子である。10歳で叡山に入り、慈恵大師を師として32歳まで学んだ。
天暦2(西暦948)年8月2日、彼は夢を見た。
川の流れに沿って谷へ入ると、伽藍がある。その基趾は年季が入っており、多くの僧侶がいた。堂の南西の隅に進むとそこには縦横一丈ほどの平地があり、老人が立っているのが見えた。彼は青い冠を戴き、身には赤い服を纏っており、左手に経典を持ち右手に杖を携えている。そしてその前後には天女や天童が侍っていた。
「貴方はどなたか」上人は誰何した。
「維摩居士である。ここには千年余り住んでいるが衆生を仏の道に導く教化の縁は未だ尽きぬ。ここに住まう者の中には御仏の智を悟った者が多くいる。そなたもそれを望むならば、ここへ住まって素懐を遂げよ」老人はそう答えた。
上人はやがて夢から覚めたが、どうしていいものやらわからなかった。
それから15年余りののち、応和3(西暦963)年に至り、上人は入道君如覚の勧めで初めて談岑に入った。そこは川の流れ谷の道、御堂の様子などまるであの夢の如くであった。そこで上人は夢の中で維摩居士が立っていた平地を探し、すぐにそこに三間一面の草庵を結んだ。庵の建設には千満検校と平仙寺主があたった。
大織冠の聖霊が淨名(維摩居士のこと)の姿となって現れた旨をここに確認することができる。
尊影破裂
鎌足公の尊影が破裂する事象は末世に見られる奇跡である。
後冷泉院の御代、永承元(西暦1046)年正月24日酉の刻、鎌足公の聖霊(神像)の右の面が四寸ほど破裂云々と宮仕えの法師が告げた。次の日、寺拜を献上した。2月1日に寺主の頼春が上洛して近江守藤原隆佐を通じて事の仔細を告げた。それを聞いた帝が「住持が参上して直接仔細を述べよ」と仰ったので頼春は直ちにそのようにした。頼春から直接仔細を聞いた帝は「明日より60日間仁王経と大般若経を講じよ。今夜のうちに寺へ帰るがよい」と、このように仰った。そして、馬1匹と仕丁3人、兵士3人を頼春に賜った。
頼春一行は戌の刻に都を出て翌日の午後に山へ着き、すぐに祈祷を始めた。15日には前周防守頼祐公が幣使として告文等を携えて下向した。拝謝を終え、彼は16日に帰洛した。17日には米20石と燈油3斗が下された。
時の太政大臣は藤原頼通公、検校は春禅であった。
この出来事以来、鎌足公の神像に亀裂が入ったときには必ず都より告文使が遣わされるようになったのである。
挿絵:望坂おくら
文章:水月
「実性僧都~尊影破裂」登場人物
〈実性僧都〉
紀伊国の人。比叡山で修行したのち談岑の座主になる。
〈玄念大法師〉
実性の師匠。
〈玄鑑和尚〉
第12代天台座主。
〈増賀上人〉
参議橘恒平の息子。不思議な夢によって談岑に導かれる。
〈頼春〉
後冷泉天皇の時代の談岑寺主。鎌足神像の初めての破裂に立ち会う。