中臣鎌足が病に倒れた。彼の盟友天智天皇はその死の直前に藤原の姓と大織冠を彼に贈る。
定恵入唐
定恵和尚は中臣連鎌足の長男とされている。が、実は天萬豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと/第36代孝徳天皇のこと)のご落胤である。彼は大化元年(乙巳年/西暦645年)に誕生し、沙門恵隠に出家の師を請うた。そして、天下泰平、鎮護国家を祈念して仁王般若経を読誦する仁王会(にんのうえ)という法会を斉明天皇がわが国で初めて行われた際に、和尚の号を賜った。
さて、父親である中臣鎌足は定恵和尚に密かにこのようなことを告げていた。
「大和国には談岑(現在の多武峯)があり、ここは大変優れた土地である。また、東の伊勢高山には天照大神がおわして倭国をお護りになっている。西の金剛山では法喜菩薩が法を説いて衆生を救っておられる。南の金峯山では大権菩薩が慈尊(弥勒菩薩)がこの世に姿を現されるのをお待ちである。北の大神山では如来が神の姿を借りて現れなさり、民達を救っている。そして中央の談岑には神仙の御霊がおいでである。
これは、仏教の聖地といわれるかの唐の五台山にも引けをとらぬ素晴らしさだ。
この地に私の墓所を定めれば、我が子孫は必ずや位人臣を極めることであろう」
定恵和尚はこの言葉を聞いて、唐の五台山を拝するために天智6年(丁卯/西暦667年)に唐へ渡った。
尚、この定恵入唐の年紀については日本書紀とはその記載するところが異なっており、日本書紀では白雉4年(癸丑/西暦653年)に入唐、天智4年(乙丑/西暦665年)に帰朝となっている。
天智臨幸
天智8年(己巳/西暦669年)の冬10月10日(乙卯の日)に内臣中臣鎌足は病に倒れた。天智天皇は鎌足の私邸に行幸され、その病状をお見舞いになった。
「もし何か思うところがあるのならば、何でも申すが良い」
帝がそのように仰ったのを受けて鎌足は次のように奏上した。
「愚かな身であるこの私が申し上げることなど何もございません。ですがひとつだけ、私の葬儀は簡素なものにしていただくよう何とぞお願い申し上げます。
生きては軍事において何ら利益をもたらすことのできなかった私です。死して後に多くの民を煩わすことなどどうしてできましょう」
そう言うと鎌足はすぐに臥せってしまい、再び言葉を発することはなかった。
帝は嗚咽を漏らした。
その悲しみに打ち勝つことができず、涙を流したまま宮に還御された。
賜姓藤原
同15日(庚申の日)に天智天皇は皇太弟の大海人皇子を鎌足の家に遣わされ、次のように詔を述べさせた。
「これより前の時代のことを思うに、政務を執った臣下というのはその時代ごとに一人や二人ではなかった。しかし、これら他の者達と比べても中臣鎌足ほどの者はいない。
ただ朕だけが鎌足、そなたの身を寵愛するだけにとどまらず、朕の跡を継いで帝王となる者も、そなたの子孫を寵遇し、そなたの功績を忘れることのないよう広く篤く報いることとする。
そこでそなたに大織冠を授け、内大臣に任ずる」と。
またこのときはじめて中臣の姓を改め、鎌足に藤原朝臣の姓を賜った。
鎌足薨去
翌16日(辛酉の日)藤原朝臣鎌足は淡海の自邸で息を引き取った。享年は56歳であった。
「内大臣某朝臣は予期しないうちに忽然と身罷ってしまった。
天帝はどうして私の良人を奪ったのか。
胸が痛い。悲しい。鎌足よ、そなたが朕のもとから遠く逃げ去ってしまったことが。
惜しい。哀しい。そなたとの永の別れが。
出家して御仏に縋るのであれば宝具が必要であろう。だからそなたに純金の香炉を賜ろう。
この香炉を持って、そなたがかつて立てた誓願のごとく、観音菩薩の後に従って弥勒菩薩のおわす兜率陀天(とそつだてん)に至り、日ごと夜ごとに弥勒菩薩の妙法を聴き、朝な夕なに御仏の教えの真理に触れて心安らかに過ごすがよい」
鎌足の死に際して、天智天皇はこのように仰った。
市井の人々も皆、藤原朝臣鎌足の死を、自分の父母を喪ったかの如く哀しんだという。
挿絵:あんこ
文章:水月
「定恵入唐~鎌足薨去」登場人物
<中臣(藤原)鎌足>
天智朝の重臣。長年の功労により藤原姓と大織冠を賜る。
<天智天皇>
第38代天皇。鎌足を重用する。
<定恵>
鎌足の長男であるが、実は孝徳天皇の子。唐へ渡る。
<大海人皇子>
皇太弟。天智天皇の同母弟。