乙巳の変後、軽皇子が天皇の位に即位され、中臣連鎌足は大錦冠と内臣の位を天皇より賜った。これまでの内臣の功績は人々に称賛されるほどであった。
孝徳即位
皇極天皇4年(庚戌645年)6月、軽皇子が即位された。孝徳天皇である。
諡号(しごう)は天寓豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)。
孝徳天皇は皇極天皇の弟君であらせられ、母君は欽明天皇の孫にあたる吉備姫でいらっしゃる。
同日、中大兄皇子を皇太子とし、これまでの皇極天皇4年を改めて、大化元年とした。
下賜寵姫(かしちょうき)
同日に、孝徳天皇は中臣連鎌足に大錦冠(だいきんかん)を授けられ、併せて内臣も授けられた(年31)。
内臣(うちつおみ・ないしん)とは、大臣に準ずる位である。
また2千戸に封ぜられ、軍政と内政の重要な事柄は、すべて中臣連の処理に任ぜられた。
時を同じくして、中臣連は懐妊中の寵姫(車持夫人と号される)を賜ったが、すでに妊娠6カ月目であった。
孝徳天皇はこのことを受け、中臣連に詔して「もし男子が出生したならば、そなたの子とせよ。もし女子ならば朕が子とせん」と言われた。
寵姫は中臣連の元へ大切に送られ、4か月を過ぎたころに男子が産まれた(のちの定恵和尚である)。
(案ずるに、定恵(じょうえ)の降誕は孝徳帝が立儲(りっちょ)された時のようである。というのも、白雉(はくち)4年(癸巳653年)、定恵が入唐したという記録が日本書紀に見えるからである。)
造立釈迦
中臣連鎌足は、かねてからの念願―蘇我蝦夷・入鹿父子の専横を排除すること―を果たされたので、1丈6尺(約4.8m)の釈迦像を造られた。
この釈迦は興福寺金堂にある釈迦をさしている。
鎌足罹病(りびょう)
白雉3年(甲寅652年)秋8月、大錦冠・内臣の中臣連鎌足は、紫冠(しかん)に特進し、封8千戸を増加された(年42)。内臣の功績が武内宿祢に並ぶものでありながら、恩賞が人々の想像とかけ離れていたためである。
斉明天皇の元年(乙卯655)、内臣は大紫冠に昇進し、封5千戸が増やされた。これまでに賜った戸数を併せると計1万5千戸になる。
同二年(丙寅)内臣の中臣連鎌足は病を患い、山城国宇治群小野郷山階村の陶原(すえはら)の家に蟄居(ちっきょ)して病の治療に専念されたがその効果は現れず、斉明天皇も内臣の容態をご心配されておられた。
この時、百済の国の法明という禪尼(ぜんに)が修行の途中、内臣の屋敷に来ていた。内臣は法明と会見し、話が雑事にまで及んだ。
その時、内臣が「あなたの国にも私のような病気の者がおりますでしょうか」と法明に尋ねると「私の国にもおります」と答えた。内臣は重ねて「それでは、どのような治療を施しているのでしょうか」と法明に問うと、「維摩経(ゆいまきょう)を読誦(どくしょう)すれば、自然と治癒いたします」とのこと。
中臣連鎌足はそれを聞いて大いに喜び、法明に維摩詰経を転読してもらった。その句偈(くげ)が終わらぬうちに、読経の声に応じて内臣の病は癒えたのだった。
(ある本では、読経が問疾品に至った時に疾(病気)はたちまち癒えたという。)
維摩濫觴(ゆいまらんしょう)
斉明天皇3年(丁巳657)中臣連鎌足は、山階の陶原の家に、初めて精舎を建て、斉会を催した。これが維摩会(ゆいまえ)の濫觴である。
次の4年(戊午658)内臣は山階の陶原の家に呉僧の元興寺(がんごうじ)の福亮法師(後に僧正に任ぜられた)を呼び、その講師に依頼した。これが維摩経の奥旨を講演した初めである。
この後、天下の高才、海内の碩学(せきがく)を選んでは講師に依頼し、このようにして維摩会を催すこと、12年の歳月が経過していた。
挿絵:三菱
文章:松(まつ)
「孝徳即位~維摩濫觴」登場人物
<中臣鎌足>
おなじみ多武峯縁起絵巻の主人公。乙巳の変後、大錦冠に昇進したと同時に内臣という特別な位を賜る。
<孝徳天皇>
第36代天皇。諱は軽。斉明天皇の弟君。即位してすぐに天皇の座を追われることになる。
<車持夫人>
名は車持与志古娘(くるまもちの よしこのいらつめ)。定恵(じょうえ)と不比等の母といわれている。
<定恵和尚>
出家前の俗名は中臣真人(…まひと)。鎌足と車持夫人との子。
<法明禪尼>
百済の尼。多武峯縁起絵巻の情報以外の詳しい経歴は調べてみたが不明。
<福亮法師>
福亮(ふくりゅう)。中国(呉)出身の仏教僧侶。日本の三論宗の祖の一人である智蔵の父なんだとか。
干支の読み方
庚戌…つちのえいぬ 癸巳…みずのとみ 甲寅…きのえとら 乙卯…きのとう
丙寅…ひのえとら 丁巳…ひのとみ 戊午…つちのえうま