入鹿の屍は父のもとに届けられた。息子の屍を見た蝦夷は、もはやこれまでと屋敷に火を放つ。
(席障掩屍)
この日は雨が降り、あふれた水が庭を水浸しにしたので、筵や襖で入鹿の屍を覆った。逆臣は天意に応じて誅殺されたのだと、当時の人々はそう思った。
(賜与鹿屍)
豊浦大臣蝦夷らの凶賊がまだ平定されていなかったため、中大兄はすぐさま法興寺に入って砦とした。二卿大夫、皆それに随行した。このとき中大兄は使者を出し、入鹿の屍を父・蝦夷に引き渡した。
そこで蝦夷の一党は「我らの太郎様はすでに殺されてしまった。大臣もすぐそうなるに違いない。ならばいったい我らは誰のために虚しく戦い、処されるというのだ」そう言うと、剣を解き弓を投げ、一党はみな蝦夷のもとを去っていった。
(蝦夷投火)
翌日の己酉、蝦夷は我が身に誅戮がおよぶのを知って、自分の屋敷に火を放った。天皇記・国記・珍宝などを焼いた。舩史は走りこんで焼け残った国記などを取り出し、中大兄に献上した。
蝦夷は我が身を火に投じて亡くなり、大鬼道へと堕ちた。享年60歳。かくて蘇我本家は一日にして滅び去り、人々は喜び踊って、みな万歳と唱えた。
(古人出家)
中大兄は中臣連鎌足に感嘆し「絶えようとする綱紀が再び振るい、廃れようとする命運が再び興ったのは、公の力があってこそだ」と言うと、鎌足は「これは貴方の聖徳によるもので、私の功績ではございません」と応えた。
庚戌、天皇は中大兄に譲位しようと思い、詔を出そうとした。しかし中大兄はこれを固辞し、鎌足に相談した。
「古人大兄は殿下の兄君、軽皇子は殿下の叔父君でございます。叔父君をお立てになり、人々の望みにお応えになるのがよろしいかと存じます」
鎌足の言葉に中大兄はたいそう喜び、天皇に奏上した。それをもって軽皇子に譲位されるはずであったが、軽皇子はそれを固辞し、古人大兄に譲られた。ところが古人もそれを固辞、法興寺で出家し吉野山に入られた。
挿絵:蓮むい
文章:くさぶき
「席障掩屍〜古人出家」登場人物
<中大兄皇子>
後の天智天皇。第38代天皇。大化の改新の中心人物。
<藤原鎌足>
藤原氏の始祖。大化の改新の中心人物。
<蘇我入鹿>
蘇我蝦夷の子。蝦夷から位を譲られた後、政治を執り権勢をふるう。
<蘇我蝦夷>
通称・豊浦大臣(とゆらのおおおみ)。蘇我馬子は実父。
<軽皇子>
後の孝徳天皇。第36代天皇。中大兄の叔父。
<古人大兄皇子>
中大兄皇子の異母兄。母は蘇我馬子の娘・蘇我法提郎女(ほほてのいらつめ)。