聖徳太子の御子である山背大兄王は、朝堂の実力者、蘇我入鹿の襲撃に遭う。戦うことを良しとせず死の途についた山背大兄王とその一族の最期を仏法の奇跡が彩った。


皇極天皇の治世二年(癸卯年、西暦643年)の冬十一月(丙戌月)、蘇我入鹿臣(そがのいるかのおみ)は聖徳太子の御子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)を滅ぼそうとして王の住まう斑鳩宮を襲撃した。
山背大兄王配下の三成(みなり)は数十人の舎人とともに出陣して、入鹿の軍勢を防いだ。大兄王はその間に、直ちに獣の骨を取って自らの寝所に置き、一族を引き連れて宮を出て間道を抜け、生駒の山中へ隠れた。

蘇我入鹿の率いる軍勢は斑鳩宮を焼き払った。その灰の中から出てきた件の獣骨を見て兵士達は皆、山背大兄王は死んだのだと口々に言い合い、軍を解散して引き上げた。
一方、生駒山中に隠れている大兄王は、自分を囲む家族や部下に対してこう言った。
「我が一身のことで万民を煩わせることなどどうしてできようか。私は、我が身のために父子兄弟を喪ったなどと後世の人に言われたくはないのだ」
大兄王は直ちに斑鳩宮へと戻り、一族もろとも自ら首をくくって果てた。

山背大兄王の悲劇については、一説にはこのように伝えられている。
蘇我入鹿らは悪逆の心を起こし、聖徳太子の子孫男女合わせて二十人余りを討った。王は罪無くして害された。この「王」というのは、山背大兄王や殖栗王(えぐりのおおきみ)らのことである。
時に、斑鳩宮の王子らが皆生駒の山中に入ってから六箇日が経過していた。山背大兄王は一族を引き連れ自ら山中を出て、斑鳩宮にある塔の中へ入った。そして、彼はこのように大誓願を立てた。
「私は過去・現在・未来を見通し煩悩を断ち切る三明の智には暗く、因果の理もいまだ知らぬ。しかしながら、御仏の御言葉から推量するに、我らの宿業は今報われようとしているのであろう。俗世の汚れに塗れた五濁の身など捨てて、あの八逆の臣にくれてやろうではないか。我らの魂は蒼昊(そうこう/青い空)の上に遊び、浄土に咲く蓮のうてなへ坐さんことを」
大兄王は香を捧げてそう言った。
強くかぐわしい香りが辺りを包む。その香りは雲を抜け、天上の世界へ届いた。伎楽を演ずるものや天女、鳥や動物の姿をしたものなど、あらゆる種類の天人が現れ、西の空へと飛び去ってゆく。空は炫耀し、天上の華が舞い落ち、妙なる楽の音が響いた。人々はこれを仰ぎ見て、遠くから敬礼した。
ちょうどこのとき、山背大兄王らは皆一緒に息を引き取った。
未だかつてない出来事。奇跡だ。当時の人々は皆そう言った。
かくして、山背大兄王とその一族の霊魂は天人に導かれ、去っていったのである。
彼らを討った賊臣の目にはただ黒い雲が映り、その耳には寺の上を覆う雲から微かな雷の音がただ聞こえるばかりであった。


挿絵:茶蕗
文章:水月


「山背自経」登場人物

<山背大兄王>
聖徳太子の御子。一族とともに斑鳩宮に住まう。
<蘇我入鹿>
大豪族蘇我氏の総領息子。朝堂で絶大な権力を振るっている。