藤原氏の始祖である鎌足公の人物像と当時の政治の動きについて。
丈夫従行
内大臣こと鎌足の性格は思いやり深く、親を大切に敬い、その上聡明で、彼の優れた洞察力は深いところまで達していた。
幼い頃より学問を好み、広範囲にわたって様々な書籍を読まれた。
中でも太公の『六韜(りくとう)』を読むたびに、繰り返しいつも声に出して読まれていた。
鎌足の人柄はことに優雅で、その姿もまた上品で特に秀でており、彼を前から見る者は仰ぐように接し、彼を後ろから見る者は拝むように頭を垂れていたという。
ある人が「雄壮な御姿の立派な男性二人が、いつも公に伴っておられる」と言った。
鎌足はこの言葉を聞いて、心の内で頼みとしていた。
蝦夷企叛
岡本(舒明)天皇9年(丁酉)の頃、時の大臣である蘇我蝦夷が自らを豊浦大臣と号し、謀反を企てた。
皇極天皇元年(壬寅)に至ると、子息の蘇我入鹿が蝦夷に代わって国の政治を執るようになり、その威勢は父に勝るほどであった。
*干支について
丁酉(ひのととり)=西暦637年。
壬寅(みずのえとら)=西暦642年。
挿絵:時雨七名
文章:松(まつ)
「丈夫従行・蝦夷企叛」登場人物
<藤原鎌足>
藤原氏の始祖。中臣鎌足ともいう。大化の改新の中心人物であり、中大兄皇子(天武天皇)の腹心。
<舒明天皇>
第34代天皇。原文中では『岡本天皇』と表記されている。御名は田村皇子。
<皇極天皇>
第35代天皇。重祚後は斉明天皇。舒明天皇の皇后で、御名は宝皇女。
<蘇我蝦夷>
大臣。通称は豊浦大臣(とゆらのおおおみ)。蘇我馬子は実父。
<蘇我入鹿>
蘇我蝦夷の子。蝦夷から位を譲られた後、政治を執り権勢をふるう。
<太公>
紀元前11世紀ごろの古代中国・周の軍師。本名は呂尚(りょ しょう)で、太公望という呼び名で知られている。