後白河法皇を幽閉しようと計画する入道を、内大臣重盛は袖を濡らしながら説得し続ける。父を何としてでも思いとどまらせるため、忠孝を重んじる重盛が考え出した方法とは…。
内大臣は涙を流しながらも言葉を続ける。
「これは、後白河法皇に道理が御座いますので、叶わぬまでも、院の御所であられる法性寺殿を守護し申し上げようと存じます。その故、重盛が叙爵せられてから、今、大臣で大将を兼任する地位に至るまで、一切、法皇の御恩ではないということが御座いません。その恩の重きことを思えば、千万無量の玉の重さも超え、その恩の深きことを案ずれば、一入再入の紅の色にも過ぎましょう。
それ故に、院の御所に参り立てこもるつもりです。そのようになれば、重盛の身に代わり、命に代わらんと誓っている侍どもが、少々おりましょう。これらを召し連れて、院の御所、法性寺殿を守護し申し上げることになりますので、さすがに、以ての外の一大事となるでしょう。
悲しいかな、法皇の御ために奉公の忠義を致そうとすれば、迷慮八万の頂よりもさらに高い父上の恩を、たちまちの内に忘れることとなります。
痛ましいかな、不孝の罪を逃れようと思えば、法皇の御ために、もはや不忠の逆臣となってしまいます。
進退これ窮まりました。是非はどうにも判断がつきかねます。
お願い申し上げるところ、結局は、ただ、重盛の首をお召くださいませ。
そうすれば、院の中を守護し申し上げることもできず、院のもとへ参るお供もできません。
かの蕭何(しょうか)は、大功が同輩を超えていたことによって、官位は大相国に至り、剣を帯び、沓を履いたまま、殿上に昇ることを許されましたが、天子の御意向に背くことがあるので、高祖(劉邦)は重く罰し、深く断罪されました。
かような先例を思うにつけても、富貴(ふうき)といい栄華といい、朝恩といい重職といい、いずれも極められましたので、御運の尽きることもありえないとはいえません。
『富貴の家には禄位が重畳する。年内に2度実がなる木は、その根が必ず傷む。』といわれております。
心細いことと存じます。いつまで命を生きながらえて、乱れる世を見ることになるのでしょうか。
ただ末代に生を受けて、かかる憂き目にあっております。重盛の果報の程度が劣っておりますでしょう。
ただ今、侍1人に仰せ付けて、御庭に引き出されて、重盛の首を刎ねられるのは、安い程のことで御座いましょう。
これを各々(おのおの)、聞いていただきたい」
といって、直衣の袖も絞るほどに涙を流し、何度も言葉をくり返されたので、一門の人々は、道理をわきまえた者も、わきまえぬ者も、みな鎧の袖を濡らされたのであった。
太政入道も頼り切っている内大臣がこのようにおっしゃる。入道は力なく、
「いやいや、それまで思いも及ばぬ。悪党どもの申すことをお受け入れになって、僻事(ひがごと)が出てこぬかと、思うだけのことだ」
と、おっしゃると、内大臣は、
「たとえ、いかなる僻事が出てこようとも、法皇を何とかしてお諫めなさるべきです」
といって、つっと立ちあがると、中門に出て、侍どもに仰るに、
「ただ今、重盛が申しつけたことなどを、お前たちは聞かなかったか。今朝からここにおって、このようなことなどを申し鎮めようと存じたが、あまりに物騒に見えたので、帰ってしまったのだ。
院の御所に参上する入道殿のお供については、重盛の首が召されるのを見てから随行しろ。では、者どの参れ」
といって小松殿へ帰られた。
その後、主馬判官盛国を呼んで、
「重盛は、天下の一大事を格別に聞き出したぞ。我こそはと思う者どもは、みな武装して馳せ参じろと触れ回れ」
と仰ったので、盛国はこのことを触れ回った。少々のことではお騒ぎにならない方が、かような触れを出されたのは、何かしらの事情があってこそと思い、みな武装して我も我もと馳せ参じるのであった。
淀(よど)、羽束師(はづかし)、宇治、岡の屋、日野、勧修寺(かじゅうじ)、醍醐、小黒栖(おぐるす)、梅津(うめづ)、桂、大原(おおはら)、静原(しずはら)、芹生(せりょう)の里に散り散りにいた兵ども、あるいは、鎧を着てまだ甲をつけない者もおり、あるいは矢を背負って弓を持たない者もいる。片鎧を踏むか踏まずで、慌て騒いで馳せ参じた。
小松殿に動きありと伝わると、西八条に数千騎いた兵どもは、入道には何の申し入れもせず、ざわめきたって、みな小松殿へ駆けていった。
少しでも弓箭(きゅうせん)に携わるほどの者は、1人も残らない。
その時、入道は大いに驚き、貞能を召して、
「内大臣は、何と思って、これらの者どもを呼んだのだろう。ここで言ったように、入道のもとへ討手(うって)などを向かわせるのだろうか」
と仰ると、貞能は、涙をはらはらと流して、
「人によることで御座います。どうしてそのような御事が御座いましょうか。今朝、ここで申されたことなども、みな御後悔なさっておられるでしょう」
と申したので、入道は、内大臣と仲たがいしては、まずいことになると思われたのであろう。
法皇をお迎えしようとすることも、もはや思いとどまられ、腹巻を脱ぎ置き、素絹(そけん)の衣に袈裟(けさ)をかけて、全くといっていいほど心にもない念仏を唱えておられた。
小松殿では、盛国が重盛の命令を承って、召集に応じた武士の名を記す着到状をつけた。馳せ参じた軍勢は、一万余騎と記した。
着到状を開いて見た後、大臣は、中門に出て、侍どもに仰ったことには、
「日頃の契約に違反せず参ったことは神妙である。
異国に、このような例がある。周の幽王は、褒姒(ほうじ)という最愛の后をもっておられた。天下一の美人である。
しかし、幽王の心に満足できないことは、褒姒笑いを持たぬといって、全くといっていい程、この后は、笑うことをなさらなかった。
異国の習慣として、天下に戦乱が起こるとき、諸所で火をあげ、太鼓を打って兵を召集する方法がある。
これを烽火と名付けた。
ある時、天下に戦乱が起こって、烽火をあげたところ、后はこれを見られて、
『ああ不思議、火もあれほど多かったのだな』
といって、その時、初めてお笑いになった。
この后は、一度笑うと、百の色っぽさがあった。幽王は嬉しい事として、何事もなく、常に烽火をあげられた。
諸侯が来たが敵はいない。敵がいないなら、すぐに帰還する。このようなことが数度に及んだため、参る者もいなくなった。
ある時、隣国から凶賊が起こって幽王の都を攻めたが、烽火をあげても、例の后への烽火と思われて兵も集まらない。その時、都は陥落し、幽王はついに滅びてしまった。
さて、この后は、野干(やかん)となって走り失せたというから誠に恐ろしい。
このような事がある時は、今後もこちらから召集するような場合には、このようにして参集せよ。
重盛は、意外なことを聞き出して、召集したのである。しかし、そのことを聞き直した。僻事だったのだ。早々に帰れ」
といって、みな帰された。
実際のところ、そのようなことも聞き出されることはなかったのだが、父を諫め申された言葉に従い、我が身に軍勢が付くか否かの程度をも知り、また、父子で戦をしようということではないが、こうして入道相国の謀反の心さえも、和らげなさるとの策である。
主君が主君としての適性を欠いていても、臣下が臣下としての忠義を尽くさぬことは、あってはならない。
父が父としての責任を果たさなくても、子が子としての孝行を尽くさぬことは、あってはならない。
君のためには忠があって、父のためには孝があると、文宣王が仰ったことに重盛も背かない。
法皇もこのことをお聞きになって、
「今に始まったことではないが、内大臣の心の内は立派である。怨に恩をもって報われたのだ」
と仰られた。
果報がめでたくて、大臣で大将という地位に至ったのであろう。
武人としての容姿は、人に優れ、才智才学もまた世に勝っているではないか、と、時の人々は、感嘆しあった。
「国に諫める臣がいれば、その国は必ず安泰であり、家に諫める子がいれば、その家は必ず正常である」
と言われている。
上古にも末代にも誠に稀有な大臣である。
挿絵:ねぴ
文章:松(まつ)
「烽火之沙汰」登場人物
<平重盛>
平安時代末期の武将・公卿。平清盛の嫡男。父を助ける若き武将。苦労性。
作中では内大臣・小松殿・小松の大臣など。
<入道>
平清盛。平家一門の棟梁。伊勢平氏の棟梁・平忠盛の子。 息子に弱いかも。
<後白河法皇>
第77代天皇。諱は雅仁(まさひと)。 危うい状況下にあられる。
<平盛国>
清盛の側近。執事のような人。作中では主馬判官盛国、盛国。
<平貞能>
さだよし。父は平家貞。清盛から信任を得ている。
<用語集>
法性寺…ほっしょうじ
叙爵…じょしゃく。
六位から貴族として下限の位階であった従五位下に叙せられること。
一入再入…いちじゅうさいじゅう。
布を染料に何度もつけて染めること。また、染めた色の濃いこと。
迷慮八万…めいろはちまん。迷慮とは、須弥山(しゅみせん)のこと。
古代インドにて世界の中心にあるとされた想像上の山。八万は須弥山の標高で、八万由旬(ゆじゅん:古代インドにおける長さの単位)と表す。
禄位…ろくい。禄と官位のこと。禄は、官吏や封建武士の受ける給与の意。
重畳…ちょうじょう。幾重にも重なること。
僻事…ひがごと。間違いや誤り、過ちなどの意。道理に合わないこと。
果報…仏語。前世での行為の結果として現世で受ける報いのこと。転じて、運に恵まれて幸福なことをいう。
弓箭…きゅうせん。弓と矢の意。
野干…中国において伝説上の悪獣。キツネに似て小さい。木登りを好み、夜に鳴く声が狼に似るという。