平重盛は父清盛に大納言藤原成親の助命を乞う。そして、成親の妻子は北山の雲林院へ身を隠した。


「まこと、そうお思いのことでしょう。そうはいっても、お命を失われるような事態にまではよもやなりますまい。
 もしそうなろうとも、この重盛がおります。御助命をお引き受けいたしましょう」
 重盛大臣はそう言って出て行かれた。
 重盛は父である禅門清盛の御前にいらしてこのように申し上げた。
「あの成親卿の御命を奪うことはよくよくお考えくださいませ。
 あの方の先祖である修理大夫顕季が白河院に召し使われてよりこのかた、成親卿はその生家にいまだ例のない正二位大納言の位に上り、今は後白河院より並ぶものなき寵愛を受けております。
 そのような方の首を刎ねるなど、いかがなものでございましょう。
 都の外へ追放するだけで事足りるのではございませんか。
 北野の地に天神として祀られている菅原道真公は、その昔、藤原時平大臣の讒言によって憂き名を西海の浪へと流しました。
 西宮大臣こと源高明は多田満仲の讒言によって、その恨みを山陽の雲へと寄せました。
 菅原道真も源高明も、本当は無罪であったにもかかわらず、流罪とされたのです。
 これはみな延喜の時代のこと、醍醐天皇および冷泉天皇の御誤りであったと申し伝えられております。
 上古の時代でもかくのごとし。ましてや、末代である現代においては尚更にございましょう。
 賢王でも誤ることがあるのです。凡人にいたっては言うまでもありません。
 成親卿については既に召し捕っているのですから何も急いで殺さずとも不都合はございますまい。
 『罪が疑わしい場合は罰を軽くせよ。功が疑わしい場合をこそ賞を重くせよ』とも申します。

 それに、この重盛、かの大納言成親卿の妹を妻としております。そして我が息子維盛は成親卿の娘婿であります。
 このように親しく姻戚関係を持っているから成親卿の助命をお願い申し上げているのだとお思いでしょうね。
 ですがそうではありません。
 世のため、君主のため、そして家のために申し上げているのでございます。
 今は亡き少納言、入道信西が政権を担っていたころ、わが国では嵯峨天皇の御代に右兵衛督藤原仲成を処刑してよりこのかた二十五代の間行われていなかった死罪を初めて執り行い、
 宇治の悪左府藤原頼長の死骸を掘り起こして実検したことなどはあまりにも過ぎた沙汰であったと思われました。
 古の人々も『死罪を行えば国中に謀反の輩が絶えなくなる』と申し伝えております。
 この言葉の通り、それから二年ののち平治年間にまた、今度はその信西の遺体を掘り起こして首を刎ねて大路に晒すということがありました。
 保元に信西が行ったことが程なくしてその身に返ってきたのだと思えば、恐ろしいことだとは思われませんか。
 成親卿はそのような朝敵ではございません。殺せばかたがた、恐れもこざいましょう。
 父上の御栄華は今や欠けるところなく、何も懸念することなどございません。子々孫々までも栄えることを願っております。
 父母の善悪は必ず子孫に報います。『善行を積んだ家には余りある慶事があり、悪行を積んだ一門には災難が残る』と申します。
 何としても今夜、成親卿の首を刎ねることはおやめいただきたい」
 入道相国清盛は、重盛のこの言を聞いてその通りだとお思いになった。そして、成親卿を死罪に処すことは思いとどまられた。
 清盛の御前を辞した後、重盛大臣は中門に出られて侍どもに仰った。
「入道の仰せであるからといって大納言を躊躇なく殺すことはあってはならない。
 入道は怒りにまかせて物騒なことをしでかして、必ず後悔することになるのだ。
 お前たちも軽率に過ちを犯して罰せられても、後で私を恨むな」
 大臣の言に、兵どもはみな舌を震わせて恐れおののいた。
「それにしても、経遠と兼康が今朝大納言に無情に当たったのは返す返すも不思議だ。
 私がのちにそれを問い質すことに思い至らなかったのか?
 片田舎の者どもはそんなものか」
 重盛大臣がそう仰ったので、難波太郎経遠も瀬尾次郎兼康も共に恐れ入ってしまった。
 大臣はこのように仰り、小松殿へと帰られた。

 さて、大納言成親のお供であった侍どもは中御門烏丸の宿所へ走り帰って大納言が捕らえられたことを申し上げた。
 それを聞いて北の方以下女房達は声も惜しまず泣き叫んだ。
「既に武士がこちらへ向かっております。嫡子である少将殿をはじめ、皆様も捕らえられると聞いております。急ぎ、どこかへお隠れください」
 侍がそう申せば、
「今はこのような身の上になり、生き残ったとしてもそれが何になりましょう。
 ただ大納言様と同じ一夜の露と消えてしまうことこそ本意である。
 それにしても、今朝を限りの命と知らなかったことの悲しさよ」
 北の方はそう言って伏せて泣かれた。
 既に平家の武士どもが近づいてきていることを聞くと、こうしてまた恥ずかしく辛い目に遭うのもやはり受け入れられないとお思いになり、十歳になる女の子と八歳の男の子を車に乗せ、どこへともなくお発ちになった。
 しかし、どこへともなくというわけにもいかないので、大宮を北に上り、北山の辺り、雲林院へとお越しになった。
 どこか適当な僧房に一行を下ろし、送りの者どもも我が身可愛さに暇を乞うて帰っていった。
 今はあどけない幼い子供ばかりが残って、訪れる人もいなくていらっしゃる北の方の心中は察して余りある。
 暮れていく日の陰を見るにつけても、夫である大納言の露の命もこの夕べを限りと思い、消え入りそうな思いにかられる。
 宿所には女房や侍は多くいたが、荷物を整頓することも、門を押して閉めることもしない。馬は厩に並んでいるが、草をやる者は一人もいない。
 夜明けが来れば馬や車が門に立ち並び、賓客は列をなして、皆で遊び戯れ、舞い踊り、世を世とも思わなかった。近くの人はその威容を畏れて高らかにものを言うこともなかった。
 昨日まではそのような暮らしぶりだったのに、一夜のうちに変わってしまう有様はまさに盛者必衰の理が目の前に顕われたといった風情である。
 「楽しみ尽きて、悲しみ来る」
 と書かれた江相公の書の意味を今こそ思い知らされる心地である。


挿絵:花糸
文章:水月


「小教訓(後)」登場人物

<平重盛>
平清盛の嫡男。藤原成親の妹の夫でもある。
<平清盛>
平家の主。
<藤原成親>
大納言。自らの助命を重盛に依頼する。
<難波太郎経遠・瀬尾次郎兼康>
清盛配下の侍。清盛の命で成親を折檻した。
<北の方>
成親の妻。幼子を連れて北山の雲林院へと逃れる。