無実の罪で遠流の刑に処せられた明雲大僧正を奪還すべく、日吉山王権現の御神託を受けた延暦寺の衆徒率いる大衆が勇ましく立ち上がる。しかし、明雲大僧正は、唐代の一行阿修羅を例に出し、延暦寺に戻ることを涙ながらに断ろうとする。
十禅師(じゅうぜんじ)権現の境内で宗徒はまた話し合う。
「さて、我々は、粟津に出向き、座主(ざす:明雲大僧正)を奪還し奉るべきです。しかし、護送の役人がいるので、無事に奪い取り奉ることは難しいでしょう。山王大師の御力におすがりするしか、ほかに頼む方法は御座いません。まことに別段の差し支えなく座主を取り戻し奉ることができるなら、ここでまず吉兆をお見せください」
と、老僧たちは肝胆を砕いて、十禅師権現に祈った。
ここで、無動寺の法師、乗円律師の召使、名を鶴丸という生年18歳になる者が、身心(しんしん)ともに苦しみ、全身から汗を流して、突然狂いだした。
「私に、十禅師権現が、乗り移られた。
末代(まつだい)とはいえ、どうして我が(比叡)山の座主を他国へお移しできましょうか。
永久に心苦しい。そのようであれば、私がこの麓に居続けましても、何になりましょうか」
とて、鶴丸に乗り移ったとみられる権現は左右の袖を顔におし当てて、涙をはらはらと流す。宗徒は、これを疑わしく思い、
「まことに十禅師権現の御神託であられるなら、我々はその証明を示しましょう。少しも違えず、元の持ち主に数珠を返してください」
と言って、老僧たち4.5百人がそれぞれ手に持っていた数珠を、十禅師の社殿にある大床の上へと投げ上げた。この神懸かりは、大床に投げ上げられた数珠を走り回って拾い集め、少しも違えることなく、一つ一つを元の持ち主に配った。
大衆(たいしゅ:ここでは衆徒)は、神の霊験が新たかなことの尊さに、みな手を合わせ、随喜の涙を流した。
「そうであるならば、すぐさま出向いて、奪い返し奉りましょう」
と言うやいなや、僧侶たちは雲霞(うんか)の如く出発する。
一方では、志賀辛崎(唐崎)の浜路を歩く大衆もあり、他方では山田、矢崎の(琵琶)湖上に、船を押し出す衆徒もある。
これを見て、あれほど厳重であった護送の役人たちも、四方へみな逃げ去ってしまった。
衆徒は国分寺へ向かって歩を進める。前座主は、大層驚いて、
「勅勘を受けた者は、月日の光にさえ当たらない、と申します。まして、急ぎ都の内から追い出せという院宣、宣旨(せんじ)が下された故、少しも留まることはできません。衆徒は早々に帰り上りなさい」
と言って、端近くに出られて、仰るには、
「私は三台槐門(さんたいかいもん)の家から出家し、比叡山延暦寺に入門して以来、今日まで、広く天台宗の教義を学び、顕教(けんぎょう)密教の両宗を学びました。ただただ、我が比叡山の興隆のみを願ってきました。また、鎮護国家をお祈り申し上げることを疎かにせず、衆徒を教育する志も深いものでした。大宮や二宮、聖真子の三聖も必ず御照覧ありましょう。
身に過失はありません。無実の罪によって、遠流という重罪を受けますが、世間も人も、神も仏も、御恨み申すことは御座いません。
ここまで訪ねて来ていただいた衆徒の御心遣いこそ、報いることは難しいのです」
と言って、丁子染めの御衣の袖をしぼれぬほど涙で濡らされたので、宗徒もみな涙を流した。
御輿を前座主に寄せて「早くお乗りください」と申し上げたところ、
「これまでは、三千の衆徒の座主でありましたが、今はこのような流人の身になって、どうして尊い修学者や、知恵深い衆徒たちに担ぎ上げられて登ることができましょうか。たとえ、登るべきであったとしても、草鞋という物を足に縛り履いて、同じ様に歩き続けて登ります」
と言い、お乗りにならない。
この時、大衆のなかに、西塔の僧侶で、戒浄坊の阿闍梨祐慶(あじゃり ゆうけい)という悪僧がいた。身長は7尺(約212㎝)ほどあったが、黒川威の大荒目の鎧に金属を打ち込んだものを、草摺長(くさずりなが)に着て、甲を脱ぎ法師らに持たせながら、白柄(しらつか)の大長刀を杖につき、
「お開けなされ」
と言って、衆徒のなかを押し分け押し分けし、前座主のおられる所へつつと出て参った。
大きな目を見開き怒ったような表情で、しばらくお睨み申し上げると、
「(座主が)その御心であるが故に、このような憂き目におあいなさるのです。早々に、お乗りになるべきです」
と申したので、(座主は)恐ろしさに、急ぎ御輿にお乗りになる。
宗徒は(座主)を取り返し奉れるうれしさに、賤しい法師ではなくて、やんごとない修学者たちが(御輿を)担ぎ捧げ奉り、喚き叫んで(比叡山を)登ったが、(担ぐ)人は代わっても、祐慶は代わらず、前輿を担ぎ、長刀の柄も、輿の棒も砕けよとばかりに握ったままで、あれほど急峻(きゅうしゅん)な東坂も、まるで平地を行くかのよう(に登ったの)である。
(比叡山の)大講堂の庭に輿を据えて、評議したところ、
「さて、我々は、粟津に出向いて座主を奪還し奉りました。すでに勅勘を受けて流罪になされた人を、お奪い申し上げて、座主になっていただくことは、どうなのでありましょうか」
と議論する。
戒浄坊の阿闍梨が、また先程のように進み出て論じたことには、
「そもそも当山は、日本に二つとない霊地、そして鎮護国家の道場だ。山王の御威光は盛んで、仏法、王法ともに互角である。それゆえ、衆徒の意思にいたるまで並びなく、賤しい法師たちでさえ、世間に軽んじられることもない。
ましてや(座主こと明雲大僧正は)智恵は高貴で、三千人の衆徒の座主であられた。今は、徳行重い、一山の和尚(かしょう)である。罪なくして断罪される、これは、山上、洛中(らくちゅう)の憤りであり、興福寺や園城寺の嘲り(を受ける)に違いなかろう。今この時、顕教密教の主を失って、数多くの学僧が勉学の勤めを怠るようなことは、心苦しいではないか。
つまるところ、祐慶が首謀者と言われて、禁獄流罪にもされ、首を刎ねられることは、現世での面目、冥途の思い出となりましょうぞ」
と言って、両眼から涙をはらはらと流す。宗徒も(彼の意見が)もっともであると賛同した。
それ以来、祐慶は、怒房(いかめぼう)と呼ばれるようになった。その弟子の恵慶律師を、当時の人は、小怒房と申した。
宗徒は前座主を、東塔の南谷、妙光房にお入れ申し上げた。
時勢の思いがけない災難は、神仏の化身と言われる人でも逃れられないのだろうか。
昔、大唐の一行阿闍梨は、玄宗皇帝の御持僧であられたが、玄宗の后、楊貴妃との浮名がお立ちになった。昔も今も、大国も小国も、人の口さがなさは(ひどいもので)形跡のないことであったが、その疑いによって(一行は)火羅国へ流されなさった。
この国へは、3つの道がある。1つ目は輪池道(りんちどう)といって(皇帝が)行幸される道、2つ目は幽地道(ゆうちどう)といって庶民が通る道、3つ目は暗穴道(あんけつどう)といって重罪の者を護送する道である。
そうなると、この一行阿闍梨の場合は、大罪を犯した人ということから暗穴道へ送られた。
七日七夜の間、月日の光を見ずに行く道である。
辺り一面真っ暗で人もおらず、歩こうとすれば方向に迷い、(草木が)深々として山深い。ただ、谷に鳥の一声だけがし、苔に濡れた衣は干そうにも干せない。無実の罪によって、遠流の重罪を受けたことを、天道は憐れみなさって、(光を当てるため空に)九曜(くよう)の姿を現しながら、一行阿闍梨を守られた。
この時、一行は、右の指を食い切って、左の袂に九曜星の形を写された。
日中両国で、真言宗の本尊たる九曜の曼陀羅が、これである。
挿絵:茶蕗
文章:松
「一行阿闍梨之沙汰」登場人物
<十禅師権現>
日枝山(比叡山)の山岳信仰と神道、天台宗が融合した神仏習合の神。天台宗の鎮守神。日吉権現、日吉山王権現とも呼ばれる。
<明雲大僧正>
明雲(みょううん・めいうん)。比叡山延暦寺の座主。天台宗の高僧で徳が高く、人望も厚い。具平親王の六代目末子である久我顕通の子。
<阿闍梨祐慶>
丈7尺もあるとされる荒くれ僧。恐ろしいほど勇ましい。一説によると1163年に逝去。鬼婆伝説の旅僧のモデルか。
<一行阿闍梨>
一行(いちぎょう)。唐代の真言宗の学僧。嵩山の大照禅師普寂に禅を学び法嗣となる。
<玄宗皇帝>
唐の第9代皇帝。開元の治と呼ばれる善政で唐の絶頂期を迎える。
<聖真子>
聖真子(しょうしんし)。近江志賀郡に現れた八幡大菩薩。
【一口メモ】
宗徒…ある宗教・宗派の信徒。信者。
衆徒…仏僧。学問や修行のほか、寺内の運営実務も担う。中級・下級の武士出身者が多かった。
大衆…仏僧の集団、また僧侶のこと。大衆の大部分が衆徒が占めているため、多くは「大衆」という語で衆徒を指す。
和尚…日本では高僧の尊称。呼び方に習わしがあり、天台宗では「かしょう」と呼ぶ。
密教…秘密仏教の略称。簡単には理解できない大日如来の説いたものとされる秘密の教え。日本では空海の真言宗が唯一の純粋密教系である。
顕教…全てを包み隠さず、明らかにされた教えのこと。空海が自らひらいた密教に対してそのように呼称していた。
三台…太政大臣、左大臣、右大臣の総称。古代中国の天文学になぞらえた。三公(日本では大臣をあてた)とも。
槐門…大臣の家柄。三公の唐名。朝廷に3本の槐(エンジュ)を植え、三公のつく位置を定めたという周代の故事に由来。
尺…日本の一尺は約30.3㎝(一般的には30㎝)。
草摺長…草摺(鎧の胴の付属具。大腿部を守る)を長く垂らしているさま。
肝胆を砕く…懸命に物事を行う。心を尽くす。
口さがなし…他人を口うるさく批評するのが好きなさま。口うるさい。名詞「口さがなさ」
やんごとない…尊い。家柄や身分がひじょうに高い。高貴である。
志賀の唐崎…現在の滋賀県大津市唐崎。文中のように「辛崎」とも書かれる。琵琶湖の西岸にあたり、港があった。松と月の名所で、古くから「唐崎」が歌枕として和歌に詠まれている。