平時忠卿が比叡山の怒りを収める。その同月、京は大火災に見舞われる。
夕方になって蔵人の左少弁兼光に命じ、殿上の間でにわかに公卿の会議があった。保安四年七月に神輿入洛の時は、天台座主に仰せつけて赤石神社へお入れ申した。また保延四年四月に神輿入洛の時は、祇園の別当に仰せつけて神輿を祇園神社へお入れ申した。今度の事件は保延の例によるべきだといって、祇園の別当権大僧都澄憲に仰せつけて、夕刻になって祇園神社へお入れ申した。神輿に立っていた矢を、神官に抜かせられた。山門の衆徒が日吉の神輿を陣頭いお振り申す事は、永久から以後治承までには六度である。そのたびに武士を召してお防ぎになったが、神輿を射奉る事は、これが初めと聞いている。「霊神が怒れば、災害はちまたに満ちるといっている。恐ろしい、恐ろしい」と、人々はみな申しあった。
同月十四日の夜半ほどに、山門の衆徒が、また大勢比叡山から京都に降りてくるという事なので、夜中に天皇は腰輿に乗られて、院の御所、法住寺へ行幸なさる。中宮は御車に乗られて行啓なさる。
小松の大臣(重盛)は直衣に矢を背負ってお供なさる。重盛の嫡子権亮少将維盛は束帯にひらやなぐいを背負って参られた。関白殿をはじめとして、太政大臣以下の公卿・殿上人は我も我もと馳せ参ずる。およそ京都中の貴き者卑しい者、内裏の身分の高い者も低い者も、騒ぎたてる事は、大変なものである。山門では神輿に矢が立ち、神人・宮仕が射殺され、衆徒が大勢負傷したので、大宮・二宮以下、講堂・根本中堂、すべての諸堂を一つも残さず焼き払って、山野に隠れるべきだと、三千の衆徒が揃って決議した。このために、衆徒の申すところを法皇がお取り上げになるだろうという噂だったので、比叡山の上席の役僧らは、情勢を衆徒に知らせようといって、比叡山に登ってきたのを、衆徒は立ち上がって、西坂本からみな追い返した。
平大納言時忠卿はその時はまだ左衛門督でおられたが、上卿にたった。山門では大講堂の庭に、三塔の衆徒が会合して、上卿を捕らえて引っ張り、「そいつの冠を打ち落とせ。その身体をひっくくって、湖に沈めろ」などと評議した。すんでのことで乱暴されそうになられた時に、時忠卿は、「しばらくお静かになさい。衆徒の方々へ申すべき事がある」といって、ふところから小硯と畳紙を取り出し、一筆書いて、衆徒の中へつかわした。これを開いて見ると、「衆徒が乱暴をするのは、魔縁のしわざである。天皇が制止するのは、仏の加護である」と書かれている。
これを見て、時忠卿を引っ張るまでもなく、衆徒は皆、「もっとも、もっとも」と賛成して、谷々へ降り、それぞれの坊へはいってしまった。一枚の紙一つの文句で、三塔三千の衆徒の憤りをしずめ、公私の恥をおのがれになった時忠卿はまことに立派である。人々も、山門の衆徒は押しかけてうるさくいうばかりかと思っていたら、道理も分かっていたのだと感心なさった。
同月二十日に、花山院権中納言忠親卿を上卿として、国司加賀守師高はついに免官されて、尾張の井戸田へ流された。目代近藤判官師経は、獄に入れられた。また去る十三日、神輿を射申した武士六人が入獄に決められた。左衛門尉藤原正純・右衛門尉正季・左衛門尉大江家兼・右衛門尉大江家国・左兵門尉清原康家・右兵門尉康友で、これらはみな小松殿の侍である。
同年四月二十八日、亥の刻(午後十時)ごろ、樋口富小路から火が起こり、東南の風が激しく吹いたので、京都中の多くが焼けた。大きい車輪のような炎が、町を三つも五つも隔てて、西北の方へ斜めに飛び越え飛び越え焼けていったので、恐ろしいどころではない。あるいは具平親王の千種殿、あるいは北野天神(菅原道真)紅梅殿、橘逸勢のはい松殿、鬼殿、高松殿、鴨居殿、東三条、冬嗣の大臣の閑院殿、昭宣公(基経)の堀河殿、これらを始めとして、昔と今の名所三十余か所、公卿の家でさえも十六か所まで焼けた。そのほか殿上人・諸大夫の家々は記すまでもない。
しまいには内裏に火が吹きつけて、朱雀門から始まって応天門。会昌門・大極殿・豊楽院・諸役所・八省・朝所など、あっという間に焼け野原と化してしまった。家々の日記、代々の文書、七珍万宝が、すっかり灰塵となった。その損害の額はどのくらいであろうか。人が焼け死ぬことは数百人、牛馬の類に至っては数えきれない。これはただ事ではない、山王権現のお咎めというので、比叡山から大きい猿どもが二、三千匹降り下り、てんでに松明を灯して京中を焼くのだと、夢で見た人もあった。
大極殿は、清和天皇の御世、貞観十八年に、初めて焼けたので、同十九年正月三日の陽成天皇の御即位は、豊楽院で行われた。元慶元年四月九日、大極殿造り始めの儀式があって、同二年十月八日に完成された。後冷泉天皇の御世、天喜五年二月二十六日に、また焼けてしまった。治暦四年八月十四日、造り始めの儀式があったけれども、建造も始められないで、後冷泉天皇は亡くなられた。後三条天皇の御世、延久四年四月十五日に完成して、文人が詩を奉り、楽人が音楽を奏して、行幸をお迎え申し上げた。今は世も末になって、国力も衰えたので、その後はとうとう造営されない。
挿絵:望坂おくら
文章:ねぴ
「内裏炎上」登場人物
<左少弁兼光>
藤原兼光。
<権大僧都澄憲>
説経の名人として有名。
<天皇>
第80代天皇高倉天皇。
<小松の大臣>
小松殿とも。平重盛のこと。
<権亮少将維盛>
平維盛。平重盛の子。
<平大納言時忠>
平氏政権の世で重要な地位を占めた人物。
<権中納言忠親>
藤原忠親。藤原師高・近藤師経を処罰した。
<加賀守師高>
西光法師の子。ついに流罪に処された。
<近藤判官師経>
師高の弟。禁獄となった。