建春門院と後白河上皇との間には皇子が居られた。その皇子に、親王の宣旨が下されなさる。従来の長幼順とはいえない複雑な皇位継承の最中、平家一門は着々と栄華を極めていくのだった。


さて、その年は先帝が崩御された後の服喪であったため、御禊(ごけい)は勿論のこと、大嘗会(だいじょうえ)も行われなかった。
同年12月24日、建春門院、その頃はまだ東の御方(おんかた)と申されていた方には、後白河上皇との間に生まれた皇子がおられたのだが、その方を皇太子に立てようとする動きがあり、親王の宣旨が下されなさった。
翌年には年号を改めて任安元年と号した。同年の10月8日、去年、親王の宣旨をお受けになられた皇子が、東三条の御所にて東宮(とうぐう:春宮とも。)に立たれた。東宮は天皇の御叔父で当時6歳、一方の主上は春宮の御甥で3歳と従来の父子・長幼の順序に相応していなかった。だが、寛和(かんな)2年に、一条天皇が7歳にて御即位され、続く三条院が11歳で春宮に立たれたという事例があるため、先例がないわけではなかった。
主上はわずか2歳で皇位をお受けになり、それからわずかなる時を経て5歳になられた年の2月19日、東宮が皇位を継がれたので、皇位をお退きになり新院と申された。まだ御元服もされていないまま、太上天皇の尊号を持たれたのである。これは中国漢朝の朝廷でも日本の朝廷でも、極めて初めてのことであった。
任安3年3月20日、新帝は大極殿で御即位された。高倉天皇と申される。
この君が皇位におつきになったことで、いよいよ平家の栄華であるように見えた。

御母の建春門院と申される方は、平家の一門でおられた上、とりわけ入道相国(-しょうこく)の北の方である二位殿の御妹である。また、平大納言時忠郷と申す方は、この女院の兄上であるため、天皇の御外戚に当たる。時忠郷は宮中の内外に影響を与える実権を持つ臣と見られた。朝廷における叙位(じょい)・除目(じもく)に関することも、全ては時忠郷の思いのままであった。これは、楊貴妃が玄宗皇帝より寵愛(ちょうあい)を受けていた時に、兄の楊国忠(-こくちゅう)が権力を握ったのと同じような状態である。
世間の人望と当時の繁栄ぶりは素晴らしかった。入道相国も、天下の大小、あらゆることについての相談を時忠郷にされていたので、この当時の人々は、権勢が強く傍若無人な時忠郷のことを皮肉も混ぜて平関白(へいかんぱく)と申し上げたのだった。


挿絵:ねぴ
文章:松


「東宮立」登場人物

<建春門院>
平滋子(ーしげこ)。建春門院は院号。平清盛の妻時子の異母妹で、後白河上皇の女御。高倉帝の母。
<平時子>
文中では二位殿。平清盛の正室。平時忠の同母姉、平滋子の異母姉。
<平時忠>
平滋子の兄。高倉帝即位にあたり、権力を掌握する。
<入道相国>
平清盛のこと。平家の棟梁。
<高倉天皇>
第80代天皇。諱は憲仁(のりひと)。後白河上皇の第三皇子。新帝になるまでは東宮(原文では春宮:現代では東宮が主流)。
<六条天皇>
第79代天皇。諱は順仁(のぶひと)。文中では主上。高倉帝に譲位後、幼くして崩御される。
<後白河上皇>
第77代天皇。諱は雅仁(まさひと)。
<一条天皇>
第66代天皇。諱は懐仁(やすひと)。
<三条天皇>
第67代天皇。諱は居貞(おきさだ)。
<玄宗皇帝・楊貴妃・楊国忠>
7世紀後半から8世紀中頃の唐の人物。囲みに楊貴妃の本名は楊玉環(-ぎょくかん)。
文中の用語説明
御禊…新帝即位の年の10月下旬に天皇が賀茂川原で行う禊ぎの儀式。
大嘗会…御禊後、新帝が新穀を食し祖神と一体化し、天皇となる一代一度の大礼。
叙位…毎年1月5日に天皇が自ら五位以上の位階を授ける儀式。
除目…大臣以外の諸官を任命する儀式。