あまりにも幼い帝の誕生に世間がざわめく中、上皇となった二条は僅か二十三歳でこの世を去る。その葬送の儀式の中で、興福寺の僧侶と延暦寺の僧侶が寺の序列を巡って額打論と呼ばれる乱闘騒ぎを起こした。


さて、永万元(1165)年の春の頃から、当代の帝である二条天皇が病に臥せっておられるとの噂であったが、夏の初めの頃にもなるとその病状は一層重いものとなっていた。
そこで、二条帝には、大蔵大輔伊吉兼盛の息女との間に二歳になる一の皇子がいらっしゃったので、この一の皇子を太子にお立てになるべきであろうとの話が持ち上がっていた。そして同じ年の六月二十五日、一の皇子に親王の位を与える宣旨が下され、彼が親王におなりになったその夜、直ちに帝より一の皇子へ皇位が譲られた。この一連の慌ただしい出来事に、世の中は何となく落ち着かない様子であった。
当時の有識者達は口を揃えてこう言った。「我が国における童帝の例といえば、平安初期の清和天皇は九才にして文徳天皇の譲位を受けて即位した。このときは昔の中国で周公、旦が幼い成王に変わって一切の政治を取り仕切った故事に倣って、帝の外祖父の忠仁公(藤原良房公)が幼い帝の補佐をなされた。
これが摂政という役職の起こりである。近年の例でいえば、鳥羽院は五歳、近衛院は三歳のときに即位したという例がある。このこともいかがなものかと申しておるのに、この度即位された帝は二歳である。このように幼い帝など先例もない。いろいろと慌ただしい世の中だといえども、いくら何でも愚かである」と。
このような状況の中、七月二十七日、二条上皇がついに崩御された。享年二十三歳。つぼみのまま儚く散ってしまう花のような最期であった。玉の簾や錦の帳の内にいらっしゃる高貴な方々は皆、涙にむせび泣いておられた。
そしてその夜、香隆寺の東北、蓮台野の奥に位置する船岡山に亡き帝の御遺体をお納めした。
この葬送の時に、延暦寺と興福寺の多数の僧侶が額打論といって互いに乱闘騒ぎを起こした。というのも、帝が崩御された後、御墓所に葬り奉る際の作法として、南の京(奈良)と北の京(京都)の僧侶達がことごとく参列してその御墓所の周囲に自らの寺の額(たてふだ)を打つということがある。
額を打つ順番は、まずは聖武天皇の勅願寺である奈良の東大寺、次に淡海公(藤原不比等公)が建立された興福寺。興福寺の後に、京都の延暦寺が向かい合うように額を打つ。そしてその次に天武天皇の勅願により教大和尚である智証大師が建立した園城寺が額を打つ。と、このように決まっている。
ところが、延暦寺の僧侶達は何を思ったのか、先例に背いて、東大寺の次、興福寺の前に自らの寺の額を打ち始めた。
その間、興福寺の僧侶達は一体どうしたものかと相談していたのだが、そこに興福寺の西金堂衆の一員で、観音房と勢至房という音に聞こえた二人の大悪僧がいた。観音房は黒糸縅(おどし)の腹巻きをして白い柄の長刀の刃に近い部分を握った出で立ちで、そして勢至房は萌黄縅の腹巻きに黒漆の大太刀を持った姿で、二人揃って勢い良く走り出すと、延暦寺の額を切って落とし、粉々に打ち割ってしまった。

「うれしや水、鳴るは滝の水、日は照るとも絶えずとうたへ」
(ああうれしい水よ。鳴る滝の水は日照りが続くとも絶えることはないと歌おうではないか)
二人は延年舞の一節を歌って囃し立て、興福寺の僧侶達の輪の中へと戻っていったのであった。


挿絵:茶蕗
文章:水月


「額打論」登場人物

<二条天皇>
帝。病に倒れたため、僅か二歳の一の皇子に皇位を譲る。

<観音房、勢至房>
ともに興福寺の僧兵で、音に聞こえた大悪僧。