亡き近衛天皇の后、藤原多子は、今帝・二条天皇から后になるよう乞われる。しかしこれは前例のないことだった…。


昔から現在に至るまで、源平両氏は朝廷に召し使われていた。帝に従わず、朝廷の権威を軽く見る者に対しては両氏が互いに制裁を加えていたので、世の乱れは生じなかった。
しかし、保元の乱で源為義が斬られ、平治の乱で源義朝が殺されてからは、末裔の源氏らのうち、ある者は流罪にされ、またある者は殺されるなどして、今や平家一門のみが繁栄し、他に台頭する者はいなくなってしまった。
どのような時代になろうとも、平家の安泰は続くかのように思われた。しかし、鳥羽院崩御の後は戦乱が続き、死罪、流刑、解官、停任が常に行われ、国内も穏やかにならず、世の中もいまだ落ちつきを取り戻していなかった。
とりわけ永暦・応保の頃からは、後白河法皇の側近たちを二条天皇方が懲戒なさり、今度は二条天皇の側近たちを後白河法皇方が懲戒なさるといったことが行われ、人々は恐れおののき、心の休まる暇もなかった。まさしく深淵に臨んで薄氷を踏んでいるかのような状況に陥っていた。
二条天皇と、後白河法皇父子の間に何か不和が生じていたのであろうが、意外な出来事も続発した。これも世の末となり、道徳が衰え人情が軽薄になった人々が、こぞって悪事を行う故である。
二条天皇は、後白河法皇からの仰せにいつも反対なさっておられたが、その中でも、世間を巻き込んでおおいに非難された事件があった。
亡き近衛天皇の后、太皇太后宮と申された方は、大炊御門に邸を構える右大臣藤原公能公の御娘である。
近衛天皇に先立たれなさった後は、宮中の外、近衛川原の御所に移り住まわれていた。
大宮は、前の后宮として、ひっそりとした御様子でいらっしゃったが、永暦の頃には二十二・三歳ほどになっておられただろうか、女盛りも少しばかり過ぎていらっしゃった。
とはいえ、大宮は天下随一の美女との誉れが高かったために、二条天皇は色事に耽溺(たんでき)なさる御心で、唐の玄宗皇帝が密かに高力士に命じて楊貴妃を外宮に召したように、この大宮へ御艶書をお送りになった。だが、大宮はまったくお聞き入れにならない。
それならば、と二条天皇はこれを表沙汰になさると、后が御入内なさるよう右大臣大炊御門家に宣旨をお下しになった。このことは天下において特別な大事件だったので、公卿が寄り合い、急遽衆議が開かれた。そして各自意見を述べ、諸卿は揃って次のように申し上げた。
「まず異国の先例を調べてみたところ、震旦の則天皇后は、唐の太宗の后であり、高宗皇帝の継母にあたります。太宗崩御の後、高宗の后になられた例があります。これは異国の先例であって、特別な例になります。しかしながら我が国では、神武天皇よりこのかた、天皇七十余代に及ぶまで、いまだ二代の后となられた例を聞いたことがありません」
後白河法皇も、不適切であると説得し申し上げたところ、二条天皇は「天子に父母なし。朕は十善の功徳によって、天皇に即位している。これしきのことが天皇の意思に任されないはずがあるだろうか」と、仰られ、すぐさま入内の日を定めて宣旨を下されたので、もはや上皇のお力も及びなさらない。
大宮は事の次第をお聞きになってから、涙に沈まれていらっしゃる。
「先帝に先立たれた久寿の秋の初め、同じ野原の露と消えるか、出家して遁世(とんせい)でもしていれば、今このような厭わしい事を耳にすることはなかったものを」
大宮はそう仰ってお嘆きになった。父の公能公がなだめながら「『世に従わぬことをもって狂人とする』と、いにしえの書に見受けられます。既に勅命は下りました。あれこれ申し上げている時間はありません。今はただ、一刻も早く内裏へ参上なさるべきです。もし皇子がお生まれになれば、あなたも天皇の母と呼ばれ、年寄りの私めも外祖父として敬われる吉兆でもありましょうか。この老父を喜ばせて下さることこそ、親孝行の至りでありましょう」と、申し上げてみるものの、御返事は無かった。
大宮はその頃、なんとなしの手習いのついでに、こうお詠みになられた。
うきふしに しづみもやらで かは竹の 世にためしなき 名をやながさん
(先帝崩御の悲しみの時、出家をとげなかったがために今、こうして世にも例の無い憂き名を残すことになるのでしょうか)
世間にはどのようにして洩れたのだろうか。これはなんとも胸を打つ話だと、世の人々は申し合った。
早くも御入内の日になり、大宮の父である公能公は、お供の公卿や出車の儀式などに特に念を入れて準備を整えなさった。しかし、大宮は気の進まない輿入れなので、すぐには御車にお乗りにならない。すっかり夜も更け、真夜中になった頃、御車に半ば押し込まれるようにしてお乗せられになった。
御入内の後には麗景殿にお住まいになられた。内裏での暮らしは、二条天皇より、朝から政務を執られるよう何度もお勧め申し上げなされた御様子だった。
かの皇居の紫宸殿には賢聖の襖が立てられており、そこには殷の伊尹(いいん)や、漢の鄭伍倫(ていごりん)、唐の虞世南、周の太公望、秦・漢の角里(ろくり)先生、唐の李(りせき)、唐の司馬らの肖像が描かれている。清涼殿には、手長・足長や馬形の襖があり、鬼の間には漢の李将軍の姿をそっくり描き写した襖もある。尾張守である小野道風が「七度、賢聖の障子を書く」のも道理だと思える。また、清涼殿の画図の障子には、昔、絵師の巨勢金岡が描いた遠山の有明の月もあるという。
それらの作品の中に、大宮は、亡き近衛天皇がまだ幼君であられたその昔、無邪気ないたずらのおり、描かれた月のあたりを墨で汚して月を曇らせるように落書きされた絵が、当時と少しも変わらずに残っているのをご覧になると、先帝のいらした昔を恋しくお思いになって、こう詠まれた。
おもひきや うき身ながらに めぐりきて 同じ雲井の 月を見むとは
(全く思いもよらなかったことです。こうした悲しい身の上で再び入内して、昔と同じ雲井の月を見ることになろうとは)

在りし日の先帝と大宮の間の御関係は、言葉に言い表せない程しみじみとした趣があり、そして、やさしかった。


挿絵:望坂おくら
文章:松


「二代の后」登場人物

<太皇太后宮>
名は多子(まさるこ)。近衛天皇の后。藤原公能の三女。

<近衛天皇>
第76代の天皇。二条帝の二代前にあたる。若くしてこの世を去る。

<後白河法皇>
第77代の天皇。二条帝との父子関係だが不仲。

<二条天皇>
第78代の天皇。後白河法皇の第一皇子。

<藤原公能>
多子の父。右大臣。